第32話  居酒屋

 小さな居酒屋に松子と力斗は呼び出された。

 以前観た時よりも小綺麗な恰好をした保坂が、先に店に入って座っていた。


「お! 保坂さん、元気そうじゃん!」


 松子は保坂に手を振る。

 保坂の方も、「松子さん久しぶり!」と、笑顔を返す。


「取りあえずビール……力斗は?」

「俺はレモンサワーで」

「何? ビール飲まないの?」

「苦手なんだよ。苦いだろう? ビール」


 騒がしい居酒屋に、松子も力斗も気分は高揚する。

 あざらし幼稚園に巻き込まれてから、外に飲みに行くなんて初めてだ。

 大福に愛着がわいた今では逃げ出そうなんて気持ちは、松子も力斗もないが。それでも大福の世話を交互にやっているし、飲みに行くなんてことは出来なかった。


 明日は、松子と力斗の両方で大福の世話をするように言われているし、代わりに大福を監視している天宮から連絡が入れば、すぐに予定を中断して帰らなければならないのだが。

 まあ……、とにかくあざらし幼稚園は、あざらしファーストなしくみなのだ。


 テーブルに店員が持ってきた料理が並ぶ。

 軟骨唐揚げと、枝豆、焼き鳥、串揚げが数本、定番の居酒屋メニューが並び、ドリンクも揃えば、早速、松子たちは、軽く乾杯して飲みだす。


「ああ、美味しい!」


 豪快に一杯目のビールを飲み干した松子に、力斗が眉をひそめる。


「お前な、明日も大福の世話があるんだぜ? ちょっとはおさえろよ」


 松子が二日酔いで倒れたら、力斗が一人で大福の世話をすることになるのだ。

 松子が調子乗って一番困るのは、力斗である。


「だって、久しぶりなのよ? 居酒屋だって最近は高いし、そうそう飲みには行けないし」

「それは、お前が無職だったからだろう?」

「うっさいわね。昨今は、無職もそう珍しいことじゃないわよ。こんなに不景気なのよ!」

「まあまあ、今日は私のオゴリですから!」


 ごちゃごちゃと言い合う松子と力斗を、保坂がなだめる。


「ずいぶん景気が良いわね。保坂さん」

「ええ、それは……まあ、軍資金を出してくれる方がいらっしゃいましたから」


 身なりをそれなりに整えて、松子たちに飲食代をおごるくらいに資金を提供してくれるなんて、ずいぶん太っ腹なパトロンを見つけたものだと、松子は訝る。


「あ、ひょっとして、またギャンブルに手を出したんじゃないでしょうね? 駄目よ! 天宮が言っていたでしょ? ギャンブルをやれば、二度と大福に会えなくなるって!」

「ええ、分かっていますよ。違いますから。大丈夫ですから」


 大福が殺処分されるかもしれないと号泣したのを見たのを最後、岩太郎に呼び出されて保坂は、ガスマスク迷彩服団に連れ去られてしまったから、松子も力斗も、保坂が何の仕事をしているのかは知らない。

 大福のために動いているのだろう……て、ことは察しがつくが、それ以上のことは分からない。

 だが、こんな風に羽振りが良くなって、穏やかな様子を見れば、それほど変な仕事を任されてはいないのだろう……と思う。


「それよりも、ほら……見せてください。楽しみにしていたんですから!」

「そうね。そうだった」


 松子は、ソルト君に命じて、大福の画像をタブレットに呼び出す。


「ああ……元気そうだ」

 

 保坂が嬉しそうに目を細める。本当は、直に大福の世話がしたい保坂であったが、それはまだ岩太郎が頼んだ仕事が終わらなければ、叶わない。


「もうすぐだからな。大福……」


 愛おしそうに、保坂はあくびする大福の画像を手で擦る。

 保坂の様子に、松子は涙ぐむ。離れ離れになった親子を見ているような気分になってくる。

 ギャンブルに身を崩して借金をつくった父親と、悪漢に攫われた幼子、それがようやく再開した場面が、勝手に脳内再生されているのは、松子が少々酔っているからかもしれない。


「良い話よね……」

「うん……まあ、な……」


 松子が感動しているというのに、力斗は上の空だった。

 

「何よ? どうしたのよ」

「うん? 何かさっきから見られている気がして」

「え、そう? 居酒屋だし、騒がしいからでしょ?」


 力斗に言われて松子も周囲を見回してみるが、これほど人が多い環境では、誰が怪しいかも分からない。


「まあ、力斗さんも松子さんも、飲みましょうよ」

「そうよ。力斗、考えたって仕方なわよ」

「うん……まあ、そうか……」


 保坂に促されて、松子も力斗もその日は久しぶりに気持ちよく酔った。

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