第34話 朝一
朝一、松子と力斗は、あざらし幼稚園に出勤している。
自分の周りがとんでもない騒ぎになっているなんて思いもよらない二人は、とっても平和にプールサイドをデッキブラシで磨く。
プールの真ん中では、ご飯をもらって満腹の大福が平和に立ち泳ぎでプカプカと浮いている。
「そのうち、増えるのかね、あざらし」
「ええ? 大福一匹でもようやく世話できるようになってきたのに。今増えたら困るわよ」
二日酔いで痛む頭で松子は応えた。
だが、力斗の言うことももっともである。
大福は可愛いが、あざらし赤ちゃん一匹のためだけにこの施設は贅沢過ぎるのだ。
しかも、何度も繰り返し述べるが、この施設は血税を注ぎ込んで作っているのである。
このまま、国民に何も還元されないまま、岩太郎が愛でるためだけに存在していては良くないのである。
「何か考えてるんだろう。天宮達が」
「いや、あのおっさん達は何も考えてない」
「かも知れんが、何かあるかもって身構えといた方が身のためだろう? ここ最近は、長沼とかがちょっかいかけて来ているし」
「そうよね……」
振り回されっぱなしの松子達であった。
幸いなことに、まだ大福に何の変化もないのだが、気構えしておくにこしたことはないだろう。
「早く保坂さんが飼育に加わってくれないかなぁ」
ベテラン飼育員の保坂が加われば、大福の世話も安心して進めることができるのだ。
第一線で是非とも働いて欲しい人材なのである。なのに、保坂は岩太郎達の仕事を手伝っているのだと聞く。
保坂が何の仕事をしているのかは知らないが、松子はあざらし幼稚園に保坂が来るのを心待ちにしていた。
◇ ◇◇
で、保坂はと言うと、朝一から、長沼の事務所に来ていた。
事務員が出勤してくる前、長沼と二人きりの空間で、保坂はへびに睨まれたカエルのようにあぶら汗を流して座っていた。ゲコゲコ。
「そんなに怯えなくっても大丈夫ですよ」
「はぁ……」
怖い。保坂が失敗すれば、大福が殺されてしまうかもしれない。そう思えば、手足が震える。
あざらしを飼育して三十年。大人あざらしから赤ちゃんあざらしまで、飼育してきたあざらしのエキスパートの保坂であっても、長沼にどう対処すれば良いのか分からない。
「タモツさん、報告を」
「はい……」
おどおどしながら、タモツさんこと保坂は、事前に天宮に指示された通りの内容を長沼に報告する。
「……つまり、あの施設は、厚生福祉施設だそうです。中では、今、色々な実験をしております」
「そう。で、あの施設では、どんな怪物が飼われているの?」
「怪物なんていないそうです」
「は?」
「あ、いや、内部の画像を見せてもらったのですが、プールが写っているだけで、怪物らしき物は何もありませんでした」
「そう……」
ジッと長沼が、保坂を見ている。
ガマの油の薬売りが実在するなら泣いて喜ぶレベルの量のあぶら汗を保坂はダラダラと流している。
怖い、なんなんだこの人……。
「嘘!」
「へぇ?」
「だって、私はこの耳で確かに聴きましたもの! あれはおぞまい怪物の声よ」
「へぇ……」
おぞましい怪物の声……それは、あの可愛らしい大福の声のことを言っているのだろうか? 保坂はいぶかる。
「地獄の使者のような恐ろしい声を出す怪物が、確かにあの施設にはいるはずなのよ」
「あ……それは、いないんじゃないかと思うんですが」
あの施設に忍び込んでいたが、そんな怪物は保坂は見たことがない。
いるのは、天使のように可愛い、マイスイートあざらしの大福だけ。
「何を隠しているの?」
「な、何も? 何も隠していませんが?」
今回ばかりは本当である。
もちろん、最愛のプリティあざらし大福のことは隠しているが、おぞましい化け物なんていないのだから。
「タモツさん、考え直して! 国民の安全のために、隠さず教えて! どんな恐ろしいことが隠されているの?」
「え? あ?」
どうやら、何も応えないタモツさん(保坂)が、本当に何も知らないと判断したようだ。
長沼は、スクッと立ち上がると、保坂にこう言い放った。
「分かったわ。ありがとう。やはり私が直接調べます」
これは、失敗したのだろうか……。
保坂の汗は、もはや大変な量になっていた。
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