第52話 縫い目

 岩太郎は、ボロボロになった『大福ちゃん一号』を抱きしめて、大粒の涙を流している。

 ソルト君を取り出した後、松子が雑に縫い付けた腹は、明らかにいびつな縫い目が踊っている。


「大福ちゃんを守るためとはいえ、こんなに尊い犠牲がっ!」


 一国の総理とは思えない、岩太郎の姿に、天宮は大きなため息をつく。

 いや、天宮よ。この岩太郎は、最初っからここまで、一度たりとも総理大臣らしい行動はとっていないのだ!(断言)

 いまさら、ため息すらつく必要もないのだ。


「縫い直してもらえばいいでしょ?」

「……自分で頑張る」


 ぐずぐず言いながら、岩太郎がみているのは、裁縫の動画。


「……まあ、松子さんに任せたら、あんな状態になってしまいましたし……今さら他人に任せるのも無理ですか……」


 一国の長たる岩太郎には、裁縫よりも政治に向き合って欲しい天宮であったが、その願いはなかなか叶いそうにもなかった。


「保坂さん……ようやく退院してきましたよ」

「そう……で、長沼君は? 保坂さん手放してくれた?」

「ええ。選挙が終わりましたし、あの施設を調べる必要がなくなりましたからね。どうやら、超絶臭い長靴を二度と履きたくないというのも、戦意喪失の一因のようです」

「長沼君……おしゃれだから。あの長靴はきつかったよね」


 岩太郎の手元では、縫い針と糸を持って、永遠に入らないのではないかと思われる糸通しの最中であった。

 老眼のくせに慣れない作業をする岩太郎に手を貸して、天宮が裁縫針の後ろに糸を通してやる。


「そうですね。いまだに時々匂いを嗅いでいますよ」


 クスクスと意地の悪い笑いを、天宮が浮かべる。


「ま……助かるよ。これで、次の計画に移れる」

「はい……準備は進めております」

「うん。見つかった?」

「ええ。順調に。仮で預かってくれた水族館……あそこに、今度、経団連の会長である正岡幸之助様が、出資なさるとかで……」

「ええ! 正岡君が!」


 ちょいちょい出てくる正岡くんは、岩太郎のあざらし同好の友である。

 驚きで、岩太郎の指に縫い針が穴をあける。


「わ、血が!」


 大切な『大福ちゃん一号』に血をつけるわけにはいかないと、岩太郎は慌ててティッシュペーパーで指を拭う。

 ジンジンと指が脈打っているのが分かるのは、思ったよりも深く刺してしまったからだろう。

 しばらくは、指を押さえて止血しなければなるまい。


「たく……」


 手が使えない岩太郎の代わりに、天宮が『大福ちゃん一号』の補修を始める。


「大福が、正岡君の手元に……くっ……やはり民間はフットワークが良い」


 トンビに油揚げを取られたごとくに、正岡に大福をとられそうな岩太郎が悔しがる。盟友で、岩太郎の活動を支えてきた正岡であったが、そこは経団連の会長まで務めた、海千山千の男である。

 欲しいと思った物は必ず手に入れるし、老獪で抜け目がない。


「しかし、この方法が、一番大福のためになりますし、保坂さんのためにも、施設のためにも良いんです。民間と連携して、官民一体となって盛り上げていく……良いじゃないですか」


 天宮にとっては、今まで以上に計画が進めやすくなった。

 こんな好都合なことはないのである。


「分かった。そこは我慢する……」

「そうして下さい」


 ポンと天宮が岩太郎の前に、修理の終わった『大福ちゃん一号』を戻す。

 無惨な姿になっていた『大福ちゃん一号』の腹は、綺麗に元通りになっていた。



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