第12話 だって、心配なんだもの
大福がパチャパチャと水面を揺らしながら泳ぐ。
短いお手々で水を掻く姿は、岩太郎の涙を誘う。
「大福ちゃん! 頑張って!」
プールサイドで掃除する松子の傍に寄りたがっているだけの大福の行動だが、その姿は岩太郎には、大きなドラマがある。
母あざらしが亡くなって、大好きな飼育員さんとも離れ離れ。そんな孤独な大福が、松子を慕って懸命に泳いでいるのだ。
岩太郎の涙腺狙い撃ち案件である。
「松子さん、もうちょっと大福ちゃんに構ってあげて!」
小さな画面に向かって岩太郎は叫ぶが、松子に聞こえるわけがない。そもそも、松子は岩太郎が監視していることも知らない。
ここは岩太郎の執務室。
念願のあざらし幼稚園が大福の保護によりとうとう始動したのだから、岩太郎は連日あざらしプールの大福の姿を見守っているのだ。
プールサイドで日向ぼっこする大福の姿も、ご飯が欲しくて懸命に松子の後を追う大福の姿も、岩太郎はつぶさに見守って日本国民の大切な明日は放りっぱなしである。
表向きは、執務室で重要案件に連日休みなく取り組み中……。その実は、片時もモニターを離れずに大福を見守っているのである。
「総理……。そろそろ限界です」
可哀想な官房長官は、訴える。
もう言い訳のネタも尽きてきた。どんな国家有事を抱えているのかと、野党も騒ぎ出し、「暗殺の予告状が来た」とか、「戦争に突っ込むギリギリの攻防が繰り広げられている」とか、「リーマンなショックが再来し国庫が最悪」とか、様々な憶測が飛んで国会内は疑心暗鬼で膨れ上がっている。
「仕方ないな……」
モニター画像を手持ちのタブレットに映して岩太郎は立ち上がる。
「国会に出ると、声出せないじゃん。大福ちゃんにエールを送れないんだよね」
苦虫を噛み潰した顔の岩太郎は、しぶしぶ国会議事堂へ移動する。
これから大切な議会が開かれるのだ。
一時も、大福の一挙手一投足も見逃したくない岩太郎は、苦虫を噛み潰した表情のまま、とんでもない速さで議席につく。
全ては、議事堂内の席でタブレットを再度見つめるために。
「ものすごく険しい顔をなさっていますが、大丈夫ですか」
総理付きの記者が怯えている。
言えない。ただ赤ちゃんあざらしを見たいがためだけに、あんな難しい顔をしているだなんて。
「あ……ご心配にはおよびません。総理なら、どんな難解な件でも解決してくれます」
官房長官の必死の誤魔化しに、ゴクリと記者が唾を飲む。
こんなポンコツにしか見えない岩太郎だが、周囲の評価は高い。あの岩太郎が、あんなに難しい表情をするだなんて、どんなに恐ろしい国家有事が起こっているのだろうと、記者たちはざわめく。
岩太郎の見ているタブレットには、どんな恐ろしい物が映っているのか……記者たちの間で噂はさらに広まっていく。
「総理! 聞いておられますか!」
野党の誇る蘇張の弁。
「こんな大切な議論をしているのに、タブレットばかりに夢中になって、どういった了見ですか!」
長沼議員のお怒りは尤もなのだ。ええ、天の声が断言します。
岩太郎は、大福のことしか考えておりません。
「そう……り……?」
長沼議員の厳しい糾弾……正論に、岩太郎は返事をしない。
じっと、タブレットに魅入っている。
議会はざわめきに包まる。周囲の者は、真実を知る官房長官以外は、皆、岩太郎のタブレットには恐ろしい国家有事が映っていると思っているのだ。
「ああ!」(大福がプールサイドから落ちそうだ!)
タブレットを見て、岩太郎が叫ぶ。
この岩太郎の叫びで、日経平均は、だだ下がりである。
「よかった……」(松子が気づいて、大福を支えてやる)
岩太郎が、ほっと安堵の表情をする。
この岩太郎の笑顔で、日経平均は、史上最高額を記録する。
すっくと立ちあがった岩太郎は、堂々と宣言する。
「この国の未来は明るい! 万事、この岩太郎に任せたまえ!」
なにやら国家有事が解決に向かったのかと、国会議事堂は歓喜の声に包まれていた。
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