第32話
三二
ここまで来て初めて、僕は目の前にいる蘆屋アシェラという人物が一体何者なのか、知りたくなった。
僕は今まで、アシェラさんの人物像や来歴に立ち入ろうとは思えなかった。なんで知ろうとしなかったのか。それはきっと「知ってしまったらアシェラさんは僕から離れていく」だろうことは明白だったからだ。人物像がわからなくとも、高校時代、一緒に過ごしているアシェラさんの、そういう機微くらいならわかる。わかっているつもりだ。
だが、僕は言い出せない。言い出すタイミングを逸していた。
アシェラさんが口を開く。
「るるせくんの腹の傷。これは白梅春葉にやられた傷だね」
「……そうです」
手元に置いてあった湯飲みを持つと、その中身、おそらくはもうぬるくなったお茶であろうものをずずず、と啜るアシェラさんは、こうして一拍おいてから、話を始める。
「僕でも治せなかったのは、僕の術式と〈形式が合わない〉傷口だったからだ。僕の治癒術式は、非可逆圧縮を可逆圧縮であるように呪術で〈働きかける〉ことで、術式が成り立っているんだよ。AをBに圧縮する場合。圧縮後にBからAに戻すとき、BからAに元通りになるのが可逆圧縮。一方、Bに変換したときに完全な復元性がなく、BからAに完全には戻せないのが非可逆圧縮。時の流れは基本、非可逆だ。時の流れが非可逆なんだから、物質も元には戻せないね。それが、因果の〈因〉であり、結果である〈果〉なんだ。でも、僕の治癒術式は、因と果を結ぶ〈線〉を可逆的にして〈遡行させる〉ことが出来る。これが僕の治癒の術式のからくりだ」
「春葉が僕に付けた傷は違う、と」
「そうなんだよ。非可逆圧縮ではなく、これは〈非圧縮〉なんだ」
「非圧縮?」
「そもそもが圧縮しない、ということ。言い換えると、因果の〈因〉と〈果〉が等価なんだ。なにかが起こってその結果があるのではなく、〈あるようにしてそこにある〉ということ」
「あるようにしてある?」
「マタイによる福音書の山上の説教のなかに、『敵を愛しなさい』という有名な言葉があるね。曰く」
アシェラさんは聖書をそらんじる。
――――あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と言われている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子となるためである。父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくれるからである――――
アシェラさんは、一呼吸置いて、それから、こう言う。
「〈悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくれる〉……つまり、因果応報ではない価値観。そこから来る術式。僕にはあまりにこの術式が強くて、この価値観の〈回路〉を自分の価値観に取り込んで自分の治癒術式を操作することが出来なかった」
「どういうことですか。僕には今の説明ではわからないのですが」
「最初からるるせくんには傷があった。それだけ。それが今、見えているだけだということだ。あるようにして、すべてはある。因果の鎖はここにはない。少なくとも、白梅春葉はそういう殺傷法で、ひとを殺している殺人鬼だ、ということだよ。AとBの可逆性について話しただろ。この場合、AはイコールでBなんだ。また、BはイコールでAでもある」
「僕に傷は最初からあったのですか。春葉が赤黒曜石で傷を付けて……いや、〈傷痕〉が、僕にはあったか。こころの傷が、たぶん、最初から。それが可視化された、ということなのか」
「さすがは水戸徳川家のあった茨城県だね」
「水戸徳川家が関係あるのですか? 江戸時代の将軍家の話でしょ。水戸黄門が天下の副将軍として水戸徳川家にいたり、そういう話ですよね。なにか関係が?」
「あるよ。昔から日本には漢籍の聖書である『
「江戸時代ってキリスト教は禁止されていたのでは」
「〈禁止される〉のと〈なくなる〉のは〈別の話〉だよ、るるせくん」
「でも、ここは禁止令を出している徳川御三家の一角ですよ」
「禁止令を出しているところが保持しているとは、灯台もと暗しだよね」
「それが春葉の術式と関係している、と」
「さっきからそう言っているじゃないか。これは〈聖性〉の力であり、術式だ。殺人鬼なのに。どういうことだろうね」
「わかりませんよ、そんなこと」
「まあ、水戸徳川家の話はあとでするとして、まずは二十三夜様の月待塔に行くことにしよう。僕は民宿のお湯に入ってから出発の用意をするよ。るるせくんは?」
「帰宅してからでいいですよ、お風呂は。このまま眠りそう。僕も行かなきゃダメですか」
「行かなきゃダメだねぇ」
「わかりました、用意します。……終わるんでしょ?」
「ん?」
「この夏の話が」
「そうだね」
「わかりました。期待していますよ、アシェラさん」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます