第7話



 発症は突然だった。

 中学校で授業を受けていたとき、教壇にいる教師から差され、教科書を読み上げることになり、僕は自分の席から立ち上がった。 

 教科書を開くと、そこには文字化けしたような、記号の羅列が、ぎっしり詰まっていた。

 おかしい、と思った僕は咄嗟に教科書の表紙を見る。中身と同様に表紙の題名も文字化けで、読めない。

 だいたい、なんの授業を受けている最中だったのか、考えると頭がぐるぐる回ってそれすら不明になった。

 教師が、

「成瀬川! 早く教科書を読め!」

 と、怒鳴る。クラスからは

「こんなのも読めないのかよ」

 というひそひそ話が聴こえてくる。

 そこに、〈人ならざる者〉の声が聞こえてきた。

「おまえが死ぬことを望んでいる人間は多い。あまりに多すぎる。どうだ、期待に沿えるように、この舞台を降りてみないか?」

 悪魔の声だった。

 悪魔は耳元でささやく。

 僕はカッターナイフを机から取り出し、立ち上がったまま、リストカットをする。

 血が出た。

 驚くクラスメイトたち。

 血の気が引く。

「死にたく……ない」

 呟いた僕は脚に力が入らなくなり、その場で倒れ、救急車で運ばれた。



 ……目覚めたその場所が病院の保護室だと気づくのに、だいぶ時間がかかった。

 窓には格子が嵌っていて、トイレとベッドだけがある部屋に、僕はいた。

「君はこれから様々な検査を受けることになるぞ」

 と、ドアの外から、出窓を通して、看護師の声がした。


 その後。ここは都内の違う区にある病院の中だと知らされ。

 体中をいじられて。

 僕は失読症との診断を受けた。

 リストカットは混乱が原因だ、と言われた。

 悪魔のささやき声については、話さなかった。

 僕はなにもできず、一週間以上、おかしな気を起こさないよう、保護室の六畳間で過ごすことになった。


 そして、ときが経つと、僕は都内から搬送され、〈茨城県〉にある隔離病棟に移されることになったのだ。



 隔離病棟は、隔離されている。社会と遮断されている。

 ベッドから起き上がると僕は、毎日の朝の検診の前に、文庫本のページを開く。

 治っているんじゃないか、と思って。

 この失読症が。

 だが、治ることはない。

 文庫本は知らない国の知らない言語で書かれているとしか思えなかったし、ちゃんと文字を見ようとすると知らないどころかその言語に規則性を認めることすらも僕には出来なかった。


 廊下の奥まったところに、格子があって、それ以上先に行けない場所があった。

 そこには近寄るな、と入院患者は、みな、言う。

 その奥には、鬼が住んでいる、というのだ。

 それは人間を喰らう青鬼で、懲役の年数は100年以上になっているが、隔離病棟で今は治療を受けている、という。


 ある夜、僕がトイレに行こうと消灯後の廊下を歩いていたときだ。

 ふと、あの〈格子の中〉を覗きたい、という欲望に駆られた。

 トイレを越して、奥へと進む。

 すると、格子の南京錠が外されていた。

 看護室の夜勤のひとはいつも眠っていて、監視カメラは見ていないのを、僕は知っている。

 僕は格子の奥へと進んだのだ。

 青鬼とは、いったいどんな人物なのか、僕には興味があった。


 格子の中に入る。

 廊下を進むと、その壁には、ぎっしりとなにか文字が書かれていた、……のだと思う。

 文字化けした記号が、廊下の奥まで続いている。

 落書きだろう、と思う。または、呪術的ななにか、だ。

 僕は文字化けに眩暈を起こしながら、先へ先へと暗い廊下を進む。


 たどり着いたのは、〈檻〉だった。


〈独房〉。


 それは間違いなく〈監獄〉だった。

 僕は見た。

 独房のカギは開いていて、その中で男性が女性に、性暴力をしていた。

 男性は看護師の白い服を着ていて、その白い服の男は、ズボンと下着を脱いで、下半身むき出しで、腰を振っていた。看護師の服なんだからきっとここの看護師なんだろう。

 女性はフランス人形のような美しい姿態をしていた。

 彼女は口にまるめたタオルを咥えさせられていた。

 タオルを咥えさせられた口からよだれを垂れ流しながら、必死に身体を動かし、もがいていた。その瞳が捉えるものはなんなのか、彼女は嗤っている。

 だが、手足はベッドの四隅に手錠で固定されていて、逃げることはできない。

 僕はそれを、ただ、じーっと見ることしかできない。

 男は僕に気づかない。だが、フランス人形のような女性は、僕に気づき、目と目が合った。

 でも、それは一瞬のことだったように思う。

 男は自分から目をそらすたびに、彼女を殴って、自分に彼女の視線を注目させた。

 タオルで拭いきれないよだれを垂らしながら、彼女は相手を嘲るように嗤っているかのように見える。

 男が二回ほど果てる。

 フランス人形はそれを蔑むように見る。 嘲りの嗤いが廊下に響く中。

 僕は、自分の病室に戻った。吐き気がした。


 彼女との出会いの訪れは、僕にとって、胸くそ悪いものだった。

 少なくとも、その始まりは。


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