第8話
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僕の心は壊れている。
窃視癖なんて特にないはずなのに、僕は夜な夜な、格子の奥の〈独房〉で行われる地獄を見学しに行っていた。
フランス人形のような彼女が〈青鬼〉なのは明白だった。
だが、青鬼はここでは被害者だった。
白い服の男は、一人のこともあれば、二、三人いることもあった。彼らは彼女に性的暴行を加え続けていた。
僕に訴える術はなかった。病人の僕にはほぼすべての権利が剥奪されていた。
そんなわけない、と思うだろう。
だが、院内というところ、隔離病棟という場所は、そういう場所なのだ。
ある日。
僕がいつものように〈独房〉に向かうと、白衣の男が一人で、フランス人形のような〈青鬼〉に対して腰を振っていた。
男が三回ほど果てて、ペットボトルの水を飲みに、ベッドを離れたときのことだ。
青鬼は、手錠で繋がれた左手を思い切りベッドの端に自分でぶつけた。
ゴキッとした、骨の関節を外す特有の音がした。親指の関節を、意図的に外したのだ。
そうなるとどうなるのか。
そう、手のかたちが変わり、手錠をすり抜けることができる。
彼女は躊躇いなく、自分の手の親指の関節を外して、手錠から手をほどいた。
外したその手で、サイドテーブルに置かれた手錠のカギを取る。
なぜサイドテーブルにカギが置いていてあったかというと、男の嗜虐心のためだ。
彼女の近くに見える場所にカギを置いて、悔しがらせるのが目的で、こんな場所にカギを置いていた。
彼女……〈青鬼〉は、青暗い嗤いを、白い服の男に向けた。
それから、手足の手錠を外した。口からタオルを吐き出す。
ゆっくりと服を着るフランス人形のような〈青鬼〉。
「下手くそ」
彼女はそう言って、唇を曲げて嗤った。
「腰を振るだけの下手くそな豚野郎。春葉は、お前らと付き合うのは懲り懲りなんだよっ?」
男が振り向く前に、素早い動きで〈青鬼〉は飛び跳ねる。
直後。
男の首の頸動脈に噛みついた。
そして、引きちぎる。
白い服の男から、鮮血が噴き出た。
「うぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
「黙れなっ?」
口に向けてげんこつを浴びせる。
その力は強く、男の前歯が折れて、口内から血が出て、黙る。
失血。
男は倒れた。
「春葉は、おもちゃになってあげてたけど、もういいよねっ? こんなつまんないこと、したくないやっ!」
〈監獄〉は血に染まり、噴きあがった血液が天井から滴っている。
その部屋の真ん中のベッドで、春葉、という〈青鬼〉が、嗤っている。
「覗きのお兄ちゃんっ。わたしは白梅春葉っ。どう? 春葉とえっちしたい?」
僕は無言で横に首を振った。
「お兄ちゃんはわたしとおなんじ匂いがするねっ! 恋は盲目っていうけど、春葉にとっては、殺意は盲目だ、って言えるんだなっ」
白梅春葉は鮮血を噴き出している男の頭を思い切り踏みつける。
「春葉が悪いんだと思って耐えてたけど、そんなわけないよね。耐えられなくなっちゃったっ。あはっ」
それから足でぐりぐりする。
それから、看護服の男の顔を蹴り飛ばした。
男の鼻から鼻血が出た。
「やっぱり、殺しをしてるときだけが、本当の春葉になれるっ。殺意は盲目なのだよっ! えっへん!」
春葉は鼻血の出ている鼻を踏みつける。
ゴキュ、と音がして血が撥ねた。
男のその長い鼻は折れた。
「お兄ちゃん。名前はなんていうのかなっ」
僕は答える。
「僕は成瀬川るるせ。失読症の患者だよ」
春葉が僕に近づく。
僕のリストカットした左手の包帯を撫で、それから包帯をほどく。
僕はされるがままにしている。
リストカットの傷跡が露わになる。
春葉は僕の手を持ち上げ、左手首のリストカットの傷跡を舌で舐めた。
「ふーん、失読、ねぇ。ご本、読めるようになるといいねっ」
春葉は、無邪気そうに嗤う。
「じゃ。わたしはこれで。さよならっ、るるせ」
僕の手を離して。
くるりと回って方向転換し。
春葉は部屋を出ていく。
僕はその場で立ちすくんでいた。
春葉は、〈青鬼〉は、その後、無事に脱出、〈脱獄〉に成功した。
全国指名手配になったそうだけど、白梅春葉は、現在に至るまで、警察に捕まっていない。
僕は僕の失読を治すのに、必死になった。
白梅春葉を理解するには、本を読む必要がある、と思ったからだ。
僕は、白梅春葉の「盲目の殺意」を、理解したかったのだ。
それは、恋に似ていたかもしれない。
恋はやっぱりひとを盲目にする。
じゃあ、僕の失読も、失読を治そうとするのも、同じく……本に対する恋、好奇心に対する恋、春葉を理解したい、という恋……だったのだろうか?
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