第33話
三三
僕は入院生活がきっかけで、あまり友達がいない。でも、友達いませんなんて主張、そういうのってヌルいじゃん。
個人の話だけしていても仕方なくて、広く社会を見渡さないとならない気がしている。ただし、外を向く、のとは僕は違っていくのだと思う、これからも。
僕は自分自身と向き合ったところに、なにか拓けるような気がするんだよ。
命題として〈空虚な自分は、本当に空虚なのだろうか〉。
まずはそれを確かめる。僕は人生においてそれほどメジャーな舞台には立てないかもしれないけど、それでも、最後に、胸を張って人生を生きたな、って自分で思えるように。それが出来れば、誰かのこころには刺さるかもしれないからね。誰かのこころには突き刺さるような、そういう人生を歩めたらいいなぁ。
僕はそんなことを考えながら、赤い月の照らす夜道を歩いていた。アシェラさんとの待ち合わせ場所であるコンビニまでは、今歩いている道路を直進すれば、たどり着くらしい。
僕が夜空を仰いで、それから視線をまっすぐ正面に向けると、そこに人影が仁王立ちしていた。来ると思っていたんだ、なんとなくだけど。
「春葉……」
僕は涙が出そうなのを抑えて、震える声で名前を呼んだ。
「るるせっ。元気かなっ?」
一点のよどみもないその声。瞳は透き通っていて、今は夏服のセーラー服を着ている。スカートは短く折っていて、黒いソックスに革靴。着替えているところをみると、住んでいる場所もまた、春葉には存在しているであろうことがわかる。
僕は目を伏せてクスッと笑んだ。それから泣かないように顔を上げ、白梅春葉と向き合う。
「僕は元気だよ、春葉」
その姿は赤い月に照らされて輝いている。
春葉はくるり、とその場で回った。両手を伸ばし、八重歯を出してはにかみ、短いスカートは浮き上がって、それを恥ずかしく思うこともなく、ただ、楽しそうに。
何回転か回ってからピタッと止まり、春葉は言う。
「月が綺麗だねっ」
「そうだね」
僕はつい笑ってしまう。
「もぅ、なんでそこで笑うかな、るるせっ」
「綺麗な月に照らされた姿が綺麗だからだよ、春葉」
今にも歌い出しそうな、気分の良い春葉は、
「春葉が綺麗なのは当然なのですっ! ――――夏は夜。月のころはさらなり、闇もなお、ほたるの多く飛びちがいたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし――――だねっ。違うかな、失読症患者さん?」
と、言う。
「元・失読症患者だよ。そっか、『枕草子』からの引用か。今は夏で、夏は夜、だよね」
腕を下ろしてから、ぴょこぴょことこちらに歩いて来た春葉は、僕に近づくと前のめりにかがむ。
「惚け惚けしてるね、るるせ。春葉はもっと殺さないとならないんだ、この恋に、殺人衝動に従って。春葉がるるせと仲良く出来るのはきっとそのあとだよ、二人が生きていたらの話だけどねー」
無邪気にそう言って、春葉はステップを踏んでまたくるりと回った。
「プラグマティック・マクシムを知ろうよ、るるせ」
「プラグマティック・マクシム」
「そういう行動様式のお話。いい、るるせ? 例えば、力っていうのは運動の変化のことを指す。だから力は加速度にほかならない。〈力は加速度である〉と言うべきか、〈力は加速度を引き起こす〉というべきかは言葉の使い方の問題でしかなくて、この運動の変化から運動は加速度であるっていう〈適用例〉から〈プラグマティック・マクシム〉は、概念の意味は常に実際的な関わりのある結果と結びつけられるんだ。〈~すれば〉で示される行動はそれぞれの概念に対する実験条件を指し、実験を行うことによってしかじかの結果が観察されることを予期しているの。実験と結果を考えることの出来ない概念は無意味な概念としてしりぞけられるね」
「んん?」
「プラグマティック・マクシムの定義を、ウィリアム・ジェイムズはこう説明しているんだ。ある対象について考えを完全に明晰にするには、その対処が実際にはどんな結果を含んでいるか、いかなる感覚がその対象から期待されるか、いかなる反応を用意せねばならないか、を考えさえすればいい。この結果がすぐ生じてもずっとあとに生じても、こうした結果についての概念がその対象に関する概念のすべてであるって」
「…………」
「哲学の仕事は命題の意味を明晰にすること。命題の意味を明晰にするためには具体的感覚をもたらすような経験的手段を規定すればよく、経験的手段を規定出来ない命題は無意味である。言い換えれば命題の意味はその検証方法にほかならない。これが、『意味の検証理論』と呼ばれるもので、この実証論理学に先駆けてプラグマティック・マクシムは存在している」
「どういうこと?」
「春葉の行動原理、知りたいでしょ、色惚けるるせにだってっ。うふふ。いいんだよ、いくらでもしてあげるよ、春葉のことが欲しくて欲しくていつでもどこでもしたくてたまらなくしてあげる。アディクションになっちゃお。だけど今は、この殺人欲を満たさないとならくて、その欲望が春葉の命題と合致するんだから殺し続けるしかないよね? だからね、るるせ。春葉が
そこまで言うと、春葉は飛び跳ねるように素早く、その場から立ち去る。手を伸ばしたが、僕の手は宙を掴むばかりだ。
「春葉……。じゃ、またね」
雨上がりの湿度の蒸し暑さに、僕はやっと気づいた。気づいた頃には、僕は涙が決壊を起こしていた。僕は空虚で、なにも掴めやしない。
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