第36話 堀之内春エピローグ

 きっとワタシは学生の頃のモラトリアムの中で生きてきたときの、あの生存競争の無い感覚のまま、一人取り残されているのだろう。悩みも不安もあるが、あらゆる意思決定は人生に決定的な影響力を持っておらず一度の失敗が生死にかかわる事など無い。当然貧困や苦しみ等とも無縁で生きてきた。しかし、幸せであるかどうかには十分に考える余地がある。モラトリアムの中で生きていけることは、つまり豊かである事の証明である。しかし、そのことがワタシの中の苦しみを不明瞭にしていたという考え方もできるのではないだろうか。


「どうぞ、召し上がって下さい」

「はい! 頂きます!」


 ここは都内にある鉄板焼き屋さんだ。店内は換気が良くされており、目の前で料理されているが煙臭さは微塵も感じなかった。今回の為にわざわざ予約してくれたらしい。一般庶民の私には『美味しいものを食べたい』という、願望をかなえるための選択肢の中に、鉄板焼き屋は存在していなかった。いやー、お店選びオーキドお任せにしてよかった。ドレスコードがあるほどの鉄板焼き屋さんに連れてきてもらったのは、かなりうれしい誤算だ。

 最初に出されたアラカルトからすごかった。目の前でサーロインステーキをさっとあぶるように焼くと、レアの状態で素早く切り分け、まるで花弁のようにお皿に盛りつける。そこに最高級のウニや、卵黄をのせ、名前もわからないおしゃれな草花を盛り付けたのだ。ソースは透明な醤油と果実をつけた日本酒をベースに延ばしており、とても香りが豊かなものだった。見た目はフレンチのようにしか見えないが、香りは純和風の仕上がりだ。

 目の前に出されたそれを、私は躊躇せず口に運ぶ。うわっ。美味しーなー。あまりに濃厚なそれは一気に口の中をその風味で占領してしまった。ローストビーフのようにしっとりとするその触感は、もはや刺身に近かった。サーロインにウニなんて本来はメインディッシュ級のものなのに、これを最初に出すなんて、これからの料理が楽しみで仕方がない。その美味しすぎるアラカルトは、とてもかわいらしい量で提供されたので、あっという間に食べ終わってしまう。美味しい。もっと食べたい。でもちょっと足りない。この心理はまさにポテトスナック理論である。こんなところでお目にかかろうとは。全国共通なんですね。


「これも、合いますよ」


 差し出されたグラスに注がれたものは、あらかじめ注文していた辛口のシャンパンだ。勧められるまま喉に流し込む。お酒に詳しくないが、すっきりと飲みやすくて上手に口の中をリセットしてくれた。しかし後味は悪くなく、うま味がいつまでの口の中にいるみたいだ。きっとこれも良いものなのだろう。元々お酒を飲むつもりはなかったが、お酒が飲めるかどうか聞かれ「おいしいものなら何でも口に入れます」と答えたら、注文してくれた。


 もしかしたら‥‥‥もしかしたらだけど、ワタシはずっと苦しかったのかもしれない。あの仮想空間の中で自分の考えに。いや、ギフテッドの部分に初めて向き合えたのだ。そのため、もしかしたらワタシは今まで自分のこの特性を無意識のうちに『未熟な人間性』と捉え、また『コントロール不可能な個性』と割り切ることで封印してきたのかもしれない。


「‥‥‥おいしいですか?」

「え? はい。めちゃうまです」


 出されたホッケの刺身のレモンソース掛けは絶品だった。干物が焼かれた姿でしたお目にかかったことの庶民派のあの子と同一人物とはとても思えない。味だけではなく、プリプリとした歯ごたえがこの料理の魅力を引き立てる。


「そうですか。それは良かった」


 オーキドは薄く笑うと、自分も料理をまた口にし始める。

 

 自分という人間は実は絶妙なバランスで成り立っているだけで、すごく危うい状態なのではないかと改めて認識している。人生を振り返るってみると、最終的にワタシの隣に誰も立ってはいなかった。一時的とはいえ友達にもそれなりに恵まれてきた人生だったから、勘違いしているだけだ。なぜなら、どんな人でもワタシの横に永くいることはないではないか。それは親、兄弟だって例外ではない。いくら自分の中に閉じ込めていても、もれ出てしまう異常性に、皆どこかでついてこられなくなってしまうに違いない。そしてそれはきっと、ワタシが加害者で、向こうが被害者なのだろう。幸か不幸か救いはワタシ自身人間にさほど執着がないことだ。身近な人間は正直煩わしいと感じてしまう。きっとあの親子のような、命を差し出してでも救いたくなるような大切な相手と生涯出会うことなど無いのかもしれない。


「やはり‥‥‥何か思い詰めていませんか?」

「全然。いつもの事です。お料理すごく美味しいですね。」


 ルマンド氏が暴走しているだけなので、気に病む必要はないと言おうかとも思ったが、話がややこしくなりそうなのでやめた。今いよいよメインディッシュのシャトーブリアンが焼き上がった。シェフは手早く切り分けてくれる。手元には、一緒に食べるために、先に提供されていたガーリックトーストは二切ほど残した。本当は白米が欲しいが空気を読みさすがに頼まない。でも、やっぱり頼むかもしれない。


 分かっているんでしょ? 自分自身。どうしようもない欲求があるって。突然全速力で駆け出したくなるほどの衝動的な好奇心があるって。とても複雑で、難解で、意味不明で、そんなものに強く惹かれる自分がここにいることは否定できないでしょ。


 わかってるよ、ルマンド氏。さっきからうるさいなぁ。中二病ですか? こういう時大人はね、黙ってニコニコ食べるのがマナーなんだよ。


 だから。もうルマンド氏じゃないんだって。ワタシは私。あれもこれも全部ワタシ。あなたこそ自分の口に何を入れるのかもう少し考えたほうがいいんじゃない? 今口に入れているのは未来の自分の一部になるんだよ。


 前回の治療から一週間ほど経過したが、現実世界の私の中のルマンド氏は私の意識をジャックすることはもう無くなっていた。その代わり、頭のなかでこのようによく独り言を言うようになったのである。自分のギフテッドをある程度受け入れられたからだろうか。人格の同一化が進み、もうそれはルマンド氏と呼べるようなものではなく、単純にもう一人の私が存在するような感覚だ。今もギフテッドの自分に引っ張られて表情が強張っていたのだろう。オーキドが気を遣ってくれている。私はワタシとまるで仲良しではない。人間は思い込みが強く、非合理的で、正直距離を取りたい。その中でも特に軽蔑に値するのが自分という人間である。どうにかしたいものだ。

ただ、この同一化。少しだけだが良いところもある。短時間ならば完全にワタシをコントロールできるのだ。今私はコントロールを奪い最も重要な事を行う。それは冷めないうちにメインディッシュのお肉を口に運ぶことだ。


「‥‥‥なんか。固形物じゃないみたいですね」


 私なりに感動を食レポしたかったのだが、おかしな単語しか出てこなかった。口の中のお肉を飲み込み、今度はガーリックトーストと一緒に食べる。母がテレビを見ながら「このアナウンサーきっと新人よ! 美味しいしか言えないリポーターなんて、リポートの意味ないじゃない」と沢庵をかじりながら言っているのを思い出したが、実際難易度高いんだよなぁ。こういう時、オノマトペの方がもしかしたら適切な表現が多いのではないのかと思う事すらある。例えばこの肉料理は『つるん とろり ねっとり じゅわっ』だ。口の中でうま味が広がる感じは伝わりそうだ。しかし、実際感想として口に出してしまうとやっぱり頭がおかしい人なのだと再認識されそうで怖い。


「ほんと。美味しいです」


 改めてオーキドに笑顔で答える。それをみて彼のほっとした表情が伝わってくる。やっぱりおいしいって言葉は偉大なんだな。


「他にも何かリクエストがあれば焼いてもらいましょう」

「それじゃこのお肉もう一つと——。あ、あとライスお願いします!」


 私は鉄板の向こうのシェフに声をかける。このあとガーリックライスが出るそうなのでライスは止められた。まことに遺憾です。



「今日はごちそうさまでした」

「いえ。むしろこれぐらいしか出来ず‥‥‥」


 私は駅の方角を振り返り、数歩歩きだす。そんな私の背中越しにオーキドが声をかけてくる。


「また。いつか!」


 今日のような食事がまたできるのなら、こちらとしては願ってもない。振り返りオーキドに返事する。


「はい! またいつか」


 そう言って私は歩き始めた。最後に仮想世界へ入る前のゲームは私の勝ち。だからおいしい食事をごちそうになることになった。しかし、ギフテッド研究の機材に損害を与えたので、本来支払われる協力金は相殺され、私の収入見込みは会社からの傷病手当のみとなった。現実的な金銭面を考えると、間もなく仕事にも復帰しないといけない。オーキドは協力金を支払うことが出来ないのに、料理を食べさせることしか出来ない罪悪感からか、終始落ち込んでいた。いいのですよ、オーキドよ。元を正せば私がブロックデバイスをゴリゴリ食べたのがいけないのです。あなたを許します。


 現地で別れた後しばらくは電車に揺られたはずなのに、不思議とほろ酔い気分は抜けず、いい気持ちのまま家に着くことが出来た。帰宅すると即シャワーと歯ブラシからのドライヤーでさっさとパジャマに着替える。仕事ハード時に編み出した最短の動線で睡眠の準備を行った。その日私は幼いころの夢を見る事になる。



 シャラン——


 シャラン——


 鈴の音が遠くから聞こえてきた。それは次第に音量を上げていき、徐々にこちらへ近づいている事が分かる。この音の正体を私は知っている。ひゃくまんぺだ。子供を亡くした人が、その供養の為に村の石碑をお参りしていると、お母さんが言ってた。私たち子供はこの行列について行くと、最後にお菓子をもらえることも知っている。

 とはいえ今は友人と五目並べの真剣勝負中だ。気をそらすわけには‥‥‥と視線を対局中の向こうに向けると、友人の方がそわそわしている。


「なに? この音なに? 鈴の音? お祭りでもあるのかなぁ」


 完全に鈴の音に心を奪われてしまっている。もはや五目並べどころではない。音はもうすぐそばまで来ている感覚があり、とりあえず見に行こうということになった。慌てて外に出た友人を追いかける為、片方だけかかとをつぶしながら追いかける。白装束の女性が児童を引き連れている異様な行列。友人は一体何を考えているのか、その光景を呆けるように眺めている。初めてひゃくまんぺを見ているだろうし、この行列に加わるとお菓子をもらえることを知らない。教えずにいたら、後で知った時に怒られてしまうかもしれない。そう思い意を決し友人の横顔に声をかけた。


「ついて行こう! お菓子がもらえるんだ!」


 私と同じくらいお菓子が好きな友人は、いきなりの提案に驚いていたが、少し間を空けると「そりゃいくしかないよね」とにやりと笑っていた。実は私自身ひゃくまんぺに加わったことはない。人見知りな上に、臆病であったから、進んで参加したいと思ったことは無かった。自分から誘ったくせに友人の背中に隠れるように、こっそり列の一部となる。

 石碑に到着するとお菓子を供え、手を合わせる。車どおりは少ないが、石碑は基本的車道に面しているため行列を作りながらお参りしている。石碑の前を通るたびに全員手を合わせお辞儀するため、待機時間も増え基本的にはつまらない。私の友人もすでに飽きているのだろう。やることがない時は道端に生えている草花をむしり始めていた。そのうち坊主頭の兄弟が帰ることとなり、白装束の人からお菓子をもらっていた。冷静に考えればわかりそうなことではあったが、私はてっきり最後までついて行かなければもらえないと思い込んでいたため、少し驚いた。なぜなら、それを許してしまうなら子供たちはみんなすぐ帰ってしまうと思ったからだ。そして、それはとても良くない事のように思えた。しかし‥‥‥というか、やはり次のお参りが終わるなり帰る子供が出てきた。


「私帰ります!」


 そう高らかに宣言したのは友人だった。心のどこかでそうなりそうな気がしていた私は慌てる。まだそれほどお参りしていないし、まるでお菓子をもらうためだけについてきたと思われるのが嫌だった。かと言ってこのまま一人で知らない子達とついて行く勇気などまるで持ち合わせておらず「わ、私も‥‥‥」と同調し手をあげてしまう。


「はい、ついてきてくれてありがとうね」


 そんな私の罪悪感などまるで知らないように、白装束の女性はお菓子を差し伸べてきた。私があわてて作る小さな手の受け皿に、こぼれないようにそっと乗せてくれる。友人は「わーい」と言いながら踵を返し速足で離れていった。私はその白装束の人と、遠ざかる友人を交互にみてわずかに逡巡したあと、おいて行かれないよう友人を選んだ。追いつくと「ハズレばっかだなー」と言いながら、お菓子を口に放り投げているところだった。私も手の中を見る。さくらんぼ餅に、ポテトフライステーキ味。あとは黒飴だった。


「あー。さくらんぼ餅だ。当たりだ。いーなー」


 その言葉は私には届かなかった。黒飴の包装紙をほどき口にカロンと入れる。それを右の頬にギュッとおしこみ友人に伝える。


「私‥‥‥戻る!」


 そういってひゃくまんぺの元へ駆け出していた。「あー、待ってよー」と友人が後ろで言っていたが特についてくる気配はなく、私は一人でたどり着いた。今でも何が私をそうさせたのかは自分でも上手く言葉に出来ない。勇気とか、やさしさとかそんなやわらかで優しいものはなかったのは確かだ。それは決意や覚悟に似た胸の高鳴りだった。きっと、もらった報酬の対価に見合った、誇れる自分でいたかったのかもしれない。


「あら、もどってきたの?」


 すこし息を切らせた私は、飴玉が入った右頬を膨らませながら答える。


「ハァハァ——。私——。黒飴好きだから——」


 その白装束の女性はふふふっと笑いながら答えてくれた。その時初めてまともに表情を見た気がした。私の母親とそう変わらない笑顔で、すっと安心できた。


「私も黒飴好きだよ。今日は食べながらお参りしよっか」

「——うん!」


 こうして私はもう一度列に加わることになった。夕焼けはいまだまぶしく、力強い光を保って いた。口の中では黒飴の蜜の香りが感じられて、やはりこれで良かったのだとおもった。

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偽物のギフテッド villain @villain1729

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