第45話
ユリが俺に囁いたその言葉は俺がユリに抱いていたイメージとは真逆なもので、相応の衝撃が頭の中に響いた。
「どうだったんですか?」
しかしユリは俺の混乱を知る由も無く、続けざまに小悪魔のようなセリフを向けてくる。
「いや、そのぉ」
「ん? はっきり言ってくださいよぉ」
ユリは何を考えているのだろうか。怒っているのだろうか。それとも、俺に失望しているのだろうか。
「タオル忘れたー……あれ⁉ 開かない!」
もしくはその両方か。
「ちょ、誰かっ! 開かないんですけど! ねえ⁉」
「……ユリ、怒ってる?」
沈黙、しかしその中でユリの呼吸が乱れる気配がした。
「怒ってますよ」
やっぱり。
「こんな不甲斐ない自分に」
「えっ?」
「ちょ、要何やってるの⁉ まだ酔ってるの⁉」
「うーん、もう飲めないですぅ」
ユリは後ろ手を組んで目を泳がせながら、不自然な咳払いで間を取る。ユリの仕草は徐々に怖い程に人間に近づいてきている。ユリを見た姫と白崎が大した違和感を覚えなかったのが何よりの証拠だ。
「私が人間なら、マスターを放っておくなんてこと、絶対にしないのに」
「……」
「要! タオル取って!」
「えーめんどー」
「帰りにチューハイ一本買ってあげるから!」
「はーいどうぞー」
よく見るとユリの目は若干充血していた。それの原因は自身の置かれた現状に対する悲しみによるものなのか、それとも嫉妬から派生した怒りに近い何かなのか。ユリに対してそういうことを考えること自体、全くの初めてで自分でもわかるくらい動揺してしまう。
「マスター、約束させてください」
「え?」
約束、させてください?
「姫ちゃーん、約束だよ?」
「はいはい、わかったから」
「私がマスターに会いに行けるとして、実際に会えるとして、そういう奇跡が起きたとして」
ユリが、俺に? 実体を持たないユリが俺に?
例えば昼過ぎ、少し空気がこもった俺の部屋にチャイムの音が響いて、俺は千鳥足で玄関のドアを開けて、少し困ったように、恥ずかしそうにはにかむユリと目が合うんだ。
俺はどうなってしまうだろう。
「姫ちゃん、絶対約束だよ?」
「はいはい、覚えてたらね」
「忘れてたら?」
「忘れてたら……そのとき考える」
絶対、忘れられないだろうな。
「そのとき、驚かないでいてほしいです」
ユリはそう言ってはにかむ。
「……もちろん」
俺は期待をこめてそう返事をした。
それから約半月、ユリは俺の前に姿を現すことは無かった。
俺のパソコンにいるユリは好き勝手動いたり喋ったりすることは無く、今まで通り決まったポーズを取っているばかりだ。
いくら話しかけても無反応。まるで夢でも見ていたかのようだ。今日も姫や白崎から通知が飛んでくる。が、頭の中の濃い霧が晴れることは無い。
俺はあまり大学に行かなくなった。体重も五キロ落ちた。
『ピンポーン』
かなり空気がこもっている部屋にチャイムの音が響く。俺は訪問者の存在を確認することなくドアを開ける。
「はい」
次の瞬間、初夏の空気が部屋に流れ込んできて、玄関に転がっていたゴミを部屋の奥まで吹き飛ばす。
久々に日の光を浴びた目がそれに慣れる頃になると、俺はやっと現実を認識する。
「あっ、あのっ!」
制服を着ている少女、長い黒髪、見覚えがある。今俺のパソコンの中にいる。
「お久しぶり、です?」
小首を傾げたユリを見て、俺は約束を守れなかったときのことを何も考えていなかったことを思い出した。
第三章 完
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