第5話
「うあぁ~」
大学の図書室に滑り込んだ俺は、パソコンを机に置いて突っ伏す。
一限が休講になったことを知ったのは、校舎に向かって爆走していた途中のことだった。
「連絡遅いんだよなぁ。毎回毎回」
教授に何かしらの事情があったにせよ、講義をやれるかどうかなんて話はもっとずっと前にわかるはずだ。連絡するのを忘れていたのか? それとも学生課がやらかしているのか? 行き場の無い怒りとは関係無く太ももがプルプルと震えている。
「気を取り直して……」
パソコンを開いてレポートを片付けようと思ったが、そうすると嫌でもユリが目に入ってしまうだろう。
俺はユリのことを愛していた。それは安心出来るからだ。こちらから言葉をかけても何も反応することは無いし、もちろん裏切られることも無い。
しかし、今はどうだ?
無邪気で純粋なユリのあの目を見ていると、俺の惨めさやちっぽけさが肥大化していくような感覚に襲われてしまう。
何故、ユリを見ているとそんな感覚に陥ってしまうのだろうか。
「おはよっ」
「わっ」
右上から聞こえてきた姫の声、振り返ると、姫はきょとんとしていた。
「どしたの。考え事?」
「え? ああ、まあ」
姫は昨日のこともあって何となく気まずい。今朝ユリに言われたこともあるから尚更だ。
『姫さんという方にマスターが取られないように、見張っておきたいんです』
「そんなことあるわけないでしょ」
「どしたの? ほんとに大丈夫?」
心の声がそのまま漏れ出てしまっていたことに気付くと、大袈裟な咳払いで誤魔化す。
「ごめん、こっちの話」
「……隣、良い?」
「……うん」
高校生の頃、姫と隣の席になることなんて珍しいことではなかった。それこそ移動教室などではいつも俺たちは隣同士だったし、俺たちにしか出来ないディープな話の数々は間違いなく高校時代のハイライトの一つだ。
「一限、休講なっちゃったね」
「うん、もっと連絡早くしてもらえれば良かったんだけど」
「わかる。いっつもだよね」
「おかげで脚ガクガク」
「ふふっ、私も」
それから何を話そう。何て返したら面白い?
あれ? もう何秒くらい黙ってる?
「ねえ、修司」
「え、何?」
「……羊と甘味料リメイク見た?」
「……もちろん」
俺は身体の向きを僅かに姫に向けると、肺に大量の酸素を送り込む。
「約十五年前のリメイク前のストーリーラインを踏襲しながらも、オリジナリティを出そうと丁寧に作ってるよな。特にリメイク前のアニオリのキャラに喋らせず、ワンフレーム顔を映すだけにしたのは良かった」
「わかる。あれ良いよね。リメイク前を見てきた私たち向けに作られてるって言うか……ちゃんと、見てくれてるなって感じで嬉しかったなぁ」
「セリフも細かく変えてるんだよなぁ。難解な話がわかりやすくなってて、凄く見やすい」
「わかる。そういえば続編読んだ?」
「読んだ! あれは本っ当に良い!」
「すみませーん、図書館ではお静かにお願いしまーす」
職員の人に注意され、やっと周囲の視線に気付いた。
「あ、すみません」
「気を付けます」
何度も頭を下げ、机に向き直ると、二人同時にくつくつとこらえるように笑い始める。
「あんた、ちゃんと見てるんじゃん」
「姫も、やっぱり中身は変わんないね」
「没収されたラノベで職員室にラノベコーナーを作った女よ? そう簡単に変わるわけないでしょ」
「間違いない」
声を殺してひとしきり笑った後、俺たちの間にはいつもの穏やかな空気が流れていた。
「良かった。元気そうで」
「うん、いつも心配かけてごめんね」
「ううん、大丈夫。今日さ、講義終わった後予定ある?」
「え? いや、何も無いけど」
「そう? じゃあ、さ、どこかで自習の続き……」
「バッテリー残量があと僅かです」
「っ!」
機械的なユリの声、パソコンを見ると、何故か起動状態にあることを示すランプが点灯していた。
「パソコン? 充電器貸そうか?」
「えっ? あっ、いや、全然、大丈夫だよこれくらい」
「でも、これから使う講義あるでしょ? ほら」
「えっ、あ、ありがとう」
姫からケーブルを受け取り、それを恐る恐るパソコンに差す。
「……ふぅ」
「ありがとうございます。姫さん」
「えっ?」
「ちょ、ちょっ」
俺は慌ててパソコンの上に覆いかぶる。
「いや、これは違うんだよ。最近そういうアプリ入れて」
「へー、そうなんだ。でも、私の名前……」
「あっ! あれって姫の友達じゃない? 行かなくて良いの?」
「えっ? あ、ほんとだ。ちょっと行ってこようかな……また連絡するね」
「う、うん、また」
去り際、姫は何か言いたげな顔をしていたが、小走りで去って行った。
姫が貸してくれた充電ケーブルを返し忘れたことに気付いたのはそれからすぐ後のことだった。
今すぐパソコンを開いてあのおてんば少女に文句を言ってやりたかったが、ここでは人目につく。
とにかく俺は、パソコンにブルートゥースイヤホンを接続して足早に図書館から出たのだった。
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