第38話

「ここならゆっくり話が出来るな」


 俺はユリの目を真っ直ぐ見つめる。対するユリは気まずそうにふいっと目を逸らす。


「話すことなんて、もう、ありません」


 ユリの今にも泣き出しそうな、いたたまれない表情を見て、軽率な発言をしたユリに対する怒りが薄れていく。


 そうだ、俺は始めユリに対して申し訳なく思っていたはずだ。秘密を隠し通せなくて、上手くフォロー出来なくて……極論を言えば、君に思い出をあげてしまって。


 しかし、そんな気持ちはすぐに真っ赤な激情に塗りつぶされてしまった。


 大事な君が君自身を傷つけていたから。


 君自身が君のことを諦めていたから。


 ああ、俺はなんて馬鹿なんだろう。


「ごめんね」


「え?」


「君の気持ちを考えず、さっきは怒鳴ったりなんてして。君は混乱していて、それはすごく自然なことなのに、俺はそれが許せなくて。君にはそんな風に笑ってほしくなかったから。身勝手、だけど」


「マスター」


「うぅ、ごめんよ」


「マスター、こっち見てください」


「え?」


 涙を拭って画面に目を凝らすと、ユリは右手に『何か』を掴んで、それを俺に向かって伸ばしていた。


「はい、キュッキュッ」


 一般的な消しゴムを少し動かし、そんなことを言ったユリの表情が徐々に綻んでいく。


「出会ったとき、マスターはこうやって私の涙を拭いてくれましたよね。覚えてますか?」


「うん。うんっ」


「私は前より少し泣き虫じゃなくなって、その代わりにマスターが少し泣き虫になってしまったのかも、ですね」


 そう言って照れくさそうに笑うユリのことが、今はいつもより数倍魅力的に見えた。


「ユリ、怒ってない?」


「はい、全く。むしろ夫婦喧嘩を経験出来て嬉しかったです」


「それはそれは……お見それしました」


「というか、謝らなければいけないのは私の方です」


 ユリは消しゴムを握った手を左手で包み込んで、それを胸に押し当てる。


「私、さっきまですごく怖くて、不安で、誰かに感情をぶつけていないと自分という存在が確認出来ないみたいで。そのせいでマスターにもあんな、自暴自棄なセリフを」


「今は、生きたいと思える?」


 聞くと、ユリはハッとした表情で顔を上げ、どこか覚悟の決まったような表情を浮かべた。


「生きたい、です」


 そして次にはいつものように柔らかく笑った。


「やっぱり、あなたを振り向かせたいから」


 それがユリからの何度目かの愛の告白だと気付いたとき、俺は初めて心臓が高鳴るのを感じた。

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