24

 沙里さりちゃんはすぐにコンパクトを拾い上げ、中を見て問題ないことを確認する。

 彼女はホッと一息ついていた。


 コンパクトの方は無事だったようだけど、樹亜羅きあらちゃんの方はどうなっているんだろうか。

 俺は体を縮こまって怯えている樹亜羅きあらちゃんに駆け寄った。

 一体何に怯えているのだろう。


「大丈夫? 樹亜羅きあらちゃん!」


「……あ……あ」


樹亜羅きあらちゃん?」


 俺の声にやっと反応してくれた樹亜羅きあらちゃんは、クマのせいで一層疲れが増幅された疲労感を醸し出している。


「こ、琴未ことみ……」


「何かあった?」


「……か、鏡に……」


「うん……」


「あ……いや、やっぱり見間違いだったかも」


「え?」


「ご、ごめん沙里さり! あまりにも自分の顔が酷すぎてびっくりしちゃったよ!」


 唐突に表情を変えた樹亜羅きあらちゃん。

 彼女はらしくない言い訳をしながら、コンパクトを持っている沙里さりちゃんに謝っている。


 沙里さりちゃんは樹亜羅きあらちゃんをなだめるように許している。

 彼女はコンパクトよりも樹亜羅きあらちゃんを心配しているようだ。

 確かに、樹亜羅きあらちゃんの動揺は沙里さりちゃんでさえ不安げになってしまうほどなのだろう。


 樹亜羅きあらちゃん、一体どうしたというのだろう。

 彼女が人から借りた物を投げ捨てるような女の子には思えない。

 少なくとも、数日過ごした俺には。

 だけど、本当に何かを見間違えたのかもしれない。

 寝不足で幻覚を見た可能性だってある。

 だから、俺は樹亜羅きあらちゃんの様子に注視しつつもそれ以上言及することはなかった。


 だけど、樹亜羅きあらちゃんの暗い表情を再び見る羽目になってしまう出来事があった。

 それはある休み時間のこと。


 俺は沙里さりちゃんや樹亜羅きあらちゃんに誘われて連れショ……いや、連れお花摘みに行った。

 朝の出来事なんぞすっかり忘れてしまった俺たち三人は、呑気にお喋りをしながらトイレへとたどり着く。

 ……その間のことはあまり語りたくないのだが、とにかく用を済ませたということだ。

 そうなれば当然向かうのは洗面台である。

 そして、洗面台には当たり前の如く鏡が壁に張り付けられている。

 コンパクトのような小さな鏡じゃない。小学生の肩より上は造作もないくらい大きな鏡だ。

 先に手を洗っていた俺は、沙里さりちゃんと樹亜羅きあらちゃんを待つ。


「ふー……せっかくだし、待ってておくか」


「あ、ごめん琴未ことみ。待たせちゃった?」


「え? ううん、全然待ってないよ樹亜羅きあらちゃん」


 先に出てきたのは樹亜羅きあらちゃんだった。

 すっきりとした表情を見せながら、彼女は手を洗うために洗面台へと近づく。

 ……気にしているわけではなかった。

 その時だけは、俺は樹亜羅きあらちゃんが手を洗っている姿をボーッとしながら眺めているだけだった。

 だから、彼女の表情にも気づけたんだと思う。


「――っ!?」


樹亜羅きあらちゃん?」


 樹亜羅きあらちゃんが手を洗い終わり、鏡に顔を向けた瞬間、彼女は小さな悲鳴なようなものを発した。

 そのせいで口に加えていたハンカチを落としてしまったが、彼女はそれを意に介さない。

 彼女は恐怖に満ちた表情と共に、口をパクパクさせていたのだ。


樹亜羅きあらちゃん!」


 俺はすぐに樹亜羅きあらちゃんに近づく。

 彼女が恐れているのは鏡だ。

 だからすぐに鏡を睨みつけた。

 ……そこには、琴未ことみ樹亜羅きあらちゃんの二人が映っていた。


「あ……あ……」


「ねえ樹亜羅きあらちゃん、一体どうしたの?」


「こ……琴未ことみ……。あ、あれ……」


 すっかり怯えきった表情の樹亜羅きあらちゃんは、震える人差し指で鏡の方向を指す。

 もう一度鏡を見た俺だったが、彼女が恐れているモノを捉えることができない。

 一体、彼女は何に怯えているというのだろう。

 映っているのはさっきと変わらず琴未ことみ樹亜羅きあらちゃんじゃないか。


「……? 何も映ってないけど……」


「え……? ほ、本当に言ってるの?」


「……うん」


 俺の困惑している表情に気がついたのか、樹亜羅きあらちゃんはより一層顔を青くさせてしまう。

 そしてすぐに首を横に振った。

 恐らく、自分がウソをついていると思われていると判断したのだろう。

 だが、そんな青ざめた顔を見れば樹亜羅きあらちゃんがウソをつくなんて考えには至らない。

 むしろ、樹亜羅きあらちゃんにしか見えていない何かが鏡に映っている。

 その事実だけで俺は背筋が寒くなるよ。


「違う……違うの! 私、ウソなんてついて――」


「大丈夫だよ樹亜羅きあらちゃん。私は信じてるから」


 パニックになって指を指しながら否定している樹亜羅きあらちゃん。

 とっさに、俺は彼女を抱きしめた。

 小学生をなだめるために、彼女の背中を優しく擦ってあげる。

 今は同じ小学生だが、心は男子高校生だ。

 これくらいの心の余裕は見せておかないとな。


「こ、琴未ことみ……!」


「よしよし。大丈夫だよ。大丈夫」


「うぅ……」


 耐えきれなくなったのか、樹亜羅きあらちゃんは俺の胸の中で泣き始めた。

 すすり泣いて、しゃっくりを繰り返す樹亜羅きあらちゃん。


 いつの間にかトイレから出てきていた沙里さりちゃんは、目の前の状況に対して目が点になっている。

 考えが追いついていないのだろう。

 俺は沙里さりちゃんに今あったことを話した。


「え? 鏡に何か映ってるの?」


「うん。樹亜羅きあらちゃんにしか見えないみたいなんだけど……」


 友だちの危機だからか、沙里さりちゃんは真剣な表情になって鏡に手を触れた。

 恐らく、俺と沙里さりちゃんがいつも戦っている化物の仕業だと思っているのだろう。

 というか、それしか考えられない。考えたくない。

 お化けは嫌だ。


「……鏡には何も感じない」


「そうなの?」


琴未ことみちゃんも鏡に触れてみてよ」


「え? わ、分かった」


 沙里さりちゃんに言われた通りに、鏡に触れる。

 鏡のツルツルとした肌触りが直に伝わり、ひんやりとして気持ちいい。

 だが、それくらいしか俺には分からない。

 苦笑をしながら、俺は沙里さりちゃんを見た。


「アハハ……私には分かんないや」


「そっか。でも琴未ことみちゃん。この鏡には何もいないよ」


「でも、だとしたらどうして樹亜羅きあらちゃんには……?」


「それは分からないけど……」


 魔法という超常現象を扱える沙里さりちゃんが感知できなくて、樹亜羅きあらちゃんにはできる。

 どういう意味なのだろうか。

 沙里さりちゃんは顎に手を当てて深々と考え事を始めていたが、そのうち思いついたように手を叩いた。


「そうだ! ねえ樹亜羅きあらちゃん」


「な……なに?」


 嗚咽を交えさせながら、樹亜羅きあらちゃんは沙里さりちゃんの問いかけに反応する。

 俺の胸に顔を埋めていた樹亜羅きあらちゃんがちょっとだけ顔を覗かせた姿に、俺は不謹慎ながらもかわいいと思ってしまった。

 沙里さりちゃんはいつもと変わらない優しい雰囲気を醸し出していた。


「今日、樹亜羅きあらちゃんの家に行ってもいいかな? 琴未ことみちゃんと私の二人で」


「どうして……?」


「決まっているよ。鏡に見えた『何か』について教えてほしいんだ」


「……私のこと、信じてくれるの?」


「うん。友だちだから。ねっ、琴未ことみちゃん!」


 沙里さりちゃんは俺の方を見る。

 同時に樹亜羅きあらちゃんも、こっちを見た。

 そのタイミングで、俺は力強く頷いた。

 心強い二人に気圧されたのか、再び泣き出してしまったのだ。


「あー琴未ことみちゃんまた泣かしちゃったのかなー」


沙里さりちゃん違うよ。これはねえ……」


「分かってるよ。琴未ことみちゃん」


 この場の雰囲気を和ませるためか、沙里さりちゃんは珍しくおどけてみせた。

 いつもは弄られる側なのに、彼女が琴未ことみを弄るなんて初めてじゃないか?

 それからも、沙里さりちゃんは言葉を続ける。


「何か、変わったね琴未ことみちゃん」


「え!?」


「何驚いてるのー? あ、別に悪い意味で言ったんじゃないよ! ただ……ちょっと頼りがいがあるなって思って……」


「そ、そうかな!? 沙里さりちゃんと変わらない小学生だよ私はアハハ!!」


「なんかね……大人になったなーって思って……」


 マズい……!

 沙里さりちゃんが俺の正体に気づきつつある。

 あまり頼りがいのあるところを見せてもダメなのか……!

 でも、今日みたいに小学生が泣いている姿を見過ごすのも嫌だしなあ……。

 加減が難しいと思う今日このごろである。


「う……ごめんね二人とも。ありがと……」


 ようやく泣き止んだ樹亜羅きあらちゃんが言った。


「気にしないで。困った時はお互い様。でしょう?」


「……ふふっ、まさか、琴未ことみに励まされるなんて、ね」


「そ、そう? 意外に思っちゃう?」


「……うん。まあね」


 そう言って樹亜羅きあらちゃんは俺から離れ、腕で涙を拭っていく。

 目は真っ赤に腫れてしまっているが、彼女の表情は落ち着きを取り戻しつつあった。


「落ち着いた? 樹亜羅きあらちゃん」


琴未ことみ、ありがとう。沙里さりもね」

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