第四章 フタフサエイジ

第1話 中野区、シアター・ブーケ

 石波いしなみ小春こはるは、不田房ふたふさ栄治えいじを訪ねて泉堂せんどう舞台照明にやって来た。今は不田房は外している、という旨を伝えると、


「先日は、不動ふどうが失礼いたしました、とお伝えください」


 とだけ言い残して、豪雨の中に去って行った。鹿野かのが慌てて後を追ったが、石波はマネージャーらしき女性が運転する黒いクルマの中に消えて行き、それきりだった。


 泉堂せんどう一郎いちろう鹿野かの素直すなお、そして泉堂舞台照明の社員数名は中野区のシアター・ブーケに移動した。泉堂が運転するハイエースに灯体を積み込み、入り切らなかった分を泉堂舞台照明の正社員であり、今回シアター・ブーケに照明技師として入ることになる大庭おおばという男性がハンドルを握るライトバンに詰め込んだ。新宿区にある泉堂舞台照明から中野区のシアター・ブーケに行くなら、電車に乗った方が早い。「先に行っててもいいんだぞ」と泉堂に言われたが、「一緒の方がいいです」と鹿野は助手席に飛び込みながら応じた。

 泉堂には何も見えていない。せめてもの救いだった。


 鹿野は、あの瞬間、目にしていた。

 雨に濡れた石波小春の肩に乗る、左手を。

 中指に翡翠の指輪を嵌めた、あの手を。


(……なだ一喜いっきなのか? だとしたらどうして? 何か言いたいことがある……?)


 咥え煙草の泉堂が運転する車内でなら、冷静になることができた。石波を見ても特に何も感じなかったらしい彼があの『手』が原因で交通事故を起こすこともないだろう。逆に鹿野がひとりで電車とバスを乗り継いだ日には──何が起こるか分かったものではない。


「そういえば、泉堂さん」

「ん〜?」

「『底無活劇』の上演中止の話なんですけど」

「ああ、名古屋と仙台な。返金処理で劇場の方も大変なことになってるって聞いた」

「どうして北海道は中止になってないんですか?」

「鹿野、今回の舞台図面見たか?」


 問いかけに鹿野は首を横に振り、この大雨の中ハンドルを握る泉堂が正面以外を向いたら危険だということに気付き、


「宍戸さんに見せてはもらいましたが、いまいち理解できないというか……ダメですね私は。演助以外のことは何もできない」

「気にすることじゃないさ。それにほら──宍戸が雇った探偵も言ってたんだろ? 『底無活劇』の舞台装置に関わったのは舞監のコオロギと大道具担当の薄原すすきはらカンジだけじゃない。ススキ大道具株式会社の一族も関与してるって」

「それは……」


 そうですね、という呟きは雨音にかき消され、泉堂にはどうやら届かなかった。


「コオロギとカンジはススキ大道具のベテラン連中の力を借りてイッセンマンシアターの舞台装置を作り上げた。だがそれがぶっ壊れて、次は大阪のコスモドロップ」

「でも、コスモドロップの装置も壊れた」

「その通り。で、だ。名古屋のシアター・パラミシアと仙台のナルギ劇場の規模はコスモドロップとほぼ同じ」

「あ、つまり」

「同じ装置は使えない。それに大阪で事故が起きた時点でコオロギとカンジは前線から外されてる。王城おうじょう──舞監助手から正式舞監に繰り上がったあいつひとりじゃ、次の装置の案は出せない。間に合わない」

「なるほど」


 ハイエースは、いつの間にかシアター・ブーケの駐車場に滑り込んでいた。ビニール傘を片手に宍戸ししどクサリがクルマに近付いてくる。


「泉堂さん、お疲れ様です。それから、お世話になりました」

「ああ、労いは仕込みが終わってからにしてくれ。例の戯曲は、鹿野が」

「はい!」


 トートバッグの中から『虚星きょせいつ』の戯曲を取り出す鹿野に「よし」と宍戸が満足げに頷く。


「まずは照明班の仕込み。それから、戯曲の検証といこうじゃないか」


 そういうことになった。


 泉堂率いる照明班と宍戸クサリと含む舞台部が灯体の設置をしているあいだ中、『虚星墜つ』に熱中していたのは他でもない桃野もものももだった。彼は、今回演じられた『底無活劇』と以前の戯曲『虚星墜つ』の比較のためだけにシアター・ブーケに呼び出されており、シアター・ブーケで上演される作品には何の関係もない。


「夢中やな、桃野さん……」


 客席の最後列に座って戯曲を読む桃野の姿に、作業着姿のきさらぎ優華ゆうかが苦笑いを浮かべる。優華ゆうかは、シアター・ブーケで行われる公演の出演者だ。


「傘牧場のオタクだって自分で言ってましたからね」

「傘劇場なぁ……うちは見たことないけど、おとんがVHS結構持ってて。記録用のやつやから画質とかは悪いんやけど」

「へえ」


 鬼優華は、所謂二代目俳優である。彼女の父、きさらぎ仙介せんすけは『伝説の舞台俳優』とまで言われた存在だ──という言い方をするとまるで既に鬼籍に入っているかのようだが、生きている。かなり元気だ。鬼仙介は、鬼優華の俳優デビューと同時に俳優業を廃業し、娘のためだけのマネジメント会社を設立した。


「聞き捨てならないなっ! 優華ちゃん!」

「うおっ。何や、聞こえとったんですか」

「僕も見たい! 傘牧場の記録映像VHS! ブルレに焼いてください!!」


 戯曲を手に近付いてくる桃野の鬼気迫る表情に「ヒィィ」と優華が声を上げる。


「ちょ……ちょっと待ってください桃野さん。傘牧場のVHSを所持しているのは優華さんではなく優華さんのお父さんです。そんな顔してもダメですよ!」

「だって鹿野ちゃん、優華ちゃんのお父さんはあの鬼仙介だよ!? VHSをブルレに焼いてくださいって頼めなくない!?」

「た、頼めはするんじゃないですか……?」

「頼むぐらいならええと思うけど、うちのおとん、VHSの映像をブルレに焼くとかそういう器用なことでけへんと思いますよ……」


 桃野の気迫にたじたじになる女性ふたりの元に、ステージを飛び降りた宍戸クサリが駆け寄ってくる。


「桃野さん! 戯曲ホン読み終わったんすか!?」

「まだ〜。読み終わっちゃうの勿体無くて……♡」

「じゃとっとと読み終えて、今回の『底無活劇』と過去の『虚星墜つ』の違いを書き出してください。早く! 一刻も早く!」


 桃野の傘牧場への愛は宍戸には伝わらないし、無関係だ。「はあい」と返事をして座席に戻る桃野のしょぼくれた横顔は、なんだか不田房栄治に似ていた。

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