第8話
結婚生活は始まった時点で破綻していた。
「初めまして、
握手のために差し出された手。青白い肌、綺麗に切り揃えられた爪、手の甲に浮かぶ細い血管さえも美しい。
「お父さん……能世さんにはお世話になってます。よろしくね、春花ちゃん」
冷え切った家庭に熱が投下される。
だがその熱は、あまりに危険な代物で。
春花は父親、能世春木にはまるで似ていなかった。母親の鞠在には瓜二つとまで言われるような顔立ちをしていたが、能世の持つどこかファニーな魅力を春花は持っていなかった。
灘一喜は当たり前のように弓引家に落ち着いた。家の中にはいつも彼がいた。能世が帰宅しない夜も、灘はお土産のケーキを持って帰ってきた。
「お父さん」
春花が初めてそう呼んだ相手は能世ではない。灘だ。
灘は形の良い眉を跳ね上げることで驚きの感情を示し、
「そうだったらいいんだけどなぁ」
とどこか困り果てた様子で微笑んだ。
小学校を卒業する頃には、学内行事のほとんどに灘が参加するようになっていた。能世も鞠在も忙しいのだ。入学式、授業参観、三者面談、運動会、学園祭。灘一喜は必ず足を運んでくれた。春花にとって灘は自慢の男だった。学園祭、彼と腕を組んで校内を回るのが楽しくて仕方がなかった。灘が能世のもとで『
中学を卒業し、高校に進学。芸能活動に理解があることで有名な学校を受験し、あっさり合格した。学校にはほんの数日しか通っていない。今も。高校生。もう大人になった。春花はそう思っていた。鞠在は春花に幾つもの仕事を持ってきた。舞台の仕事が多かった。学校も、部活も、春花にとっては大して重要なものではなかった。仕事がしたかった。だってもう、大人だから。そうして灘に認めてもらうのだ。大人として──女性として。
二年前。二年も前。
春花は灘に愛を告げた。ずっと好きだった。お父さんだなんて思ったことはない。あなたを愛している。だからあなたも、私のことを愛してほしい。
あの瞬間の、灘の表情を。
春花は忘れていた。記憶から消していた。
傷付いた顔。裏切られた顔。
どうして、と震える声で灘は言った。
「俺は春花ちゃんの……そういうのじゃ、ないよ」
じゃあどういうのなの。
灘の手首を掴んだ。春花から灘に触れたのはそれが最初で──最後になった。
「もう大人なのに。父も母も私に早く大人になれって言うから、頑張って大人になったのに」
灘の目から大粒の涙が転がり落ちた。
空白の一晩。
目覚めた時には、灘は隣にいなかった。代わりに、リビングで頭を抱える能世と鞠在がいた。
灘は風呂場で手首を切って死んでいた。
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