第2話 世田谷区、夜パフェ

 驚くほど、不田房栄治と顔を合わさない日々が続いた。知り合って一〇年。学生と指導者として知り合い、今は仕事仲間。本来ならばこの距離感が正しいのだろうと、鹿野にも分かってはいた。あまりにも近くで過ごしていた。今回の──能世春木の件で少しぐらい距離ができたところで、何も不健全ではない。特に問題はない。鹿野には鹿野の、不田房には不田房の、仕事が、生活がある。

 だから、構わない。


なだ一喜いっき

「は?」


 ──だが。

 ようやく馴染んだ平穏を破りに来た者がいる。

 宍戸クサリだ。


 その日の稽古を終え、鹿野は帰路に、宍戸は出演者らとの飲み会に向かったはずだった。京王線の改札前で呼び止められた。「飲みに行かんかったんですか」と眉を寄せる鹿野に、「いい情報が入ったんでね」と宍戸は口の端を上げて笑った。舞台監督が浮かべて良い笑顔ではなかった。結構邪悪だった。


 鹿野と不田房は揃って街に戻り、バー兼夜パフェを出してくれる店に入った。鹿野は季節の果物をふんだんに使ったチョコレートパフェとブレンドコーヒーのセットを、宍戸はなんだか良く分からない名前のカクテルと特製手作りブラウニーを注文した。

 夜の街を見下ろすことができるカウンター席に、並んで腰を下ろす。この店は喫煙可能店舗だ。飲み物が運ばれてくるより先に、ふたり揃って紙巻きを咥えていた。


「……で、なんです。楽しい楽しい飲み会をすっ飛ばすほどのええ情報って」

「こないだ言ってただろ。灘ってやつがどうとかこうとか」

「またその話……」


 鹿野素直には幽霊が見える。見えるだけだ。既に見えてしまった幽霊に関しては、できる限り忘れることにしている。

 能世春木の肩に置かれていた白い手に関しても同じ対応だ。もう忘れる。そもそも、不田房栄治という仲介人がいなければ、鹿野素直が能世春木という超有名人に遭遇する機会など二度とないのだから。


「お待たせしました〜」


 気の抜けたふわふわとした声が聞こえ、黒いエプロンを身に着けた女性店員がパフェとブラウニー、それに飲み物を運んでくる。「どうも」「ありがとう」と口々に礼を言い、鹿野はスプーンを片手にパフェに挑み、宍戸はカクテルグラスにくちびるを付けた。


「あ、鹿野」

「なんです」

「写真とか撮らなくていいの? SNS……」

「うちそういうのやっとらんので」

「そうか。そうだっけ」

「そうですよ」


 宍戸との付き合いも決して短くはない。五年以上一緒にいる。それでも知らないことはたくさんある。


「宍戸さんこそ、ええんですか。なんかやっとらんのですか、SNS」

「やってないよ。舞台監督のSNSなんて需要ないだろ」

「いやそれは偏見じゃないですか。興味ある人もおるでしょ」

「俺が見られたくないの。私生活を」

「ふうん……まあ、うちもそんな感じですよ」

「それ美味しい?」

「ひと口食べます?」


 こうして軽口を交わしていると、本題を忘れてしまいそうだ。いや、忘れてしまってもいいと鹿野は思っていた。しかし。


「──じゃ、そろそろ灘一喜の話をするか」

「ええ……」


 したくない。パフェは美味しかったし、コーヒーも悪くなかった。この良い気持ちのまま、京王線に乗って帰路に着きたい。

 情けなく眉を下げる鹿野の目の前──既に空になったパフェの器が回収された後のカウンターの上に、宍戸が自身の鞄から小冊子を取り出して置く。


『劇団傘牧場最終公演 夢三十夜』


「……傘牧場?」


 古い冊子だった。手作りだ。コピー用紙をホチキスで留めただけの、簡素な冊子。

 劇団傘牧場最終公演、ということは、つまり。


「不田房や能世が大学を卒業する年の公演ってことだな」


 煙草に火を点け、紫煙を吐きながら宍戸が平坦な声で言う。


「かなりレアなんじゃないですか、この……パンフ?」

「当日配布用のパンフだったらしい。もちろん非売品」

「どこで手に入れたんですか」

泉堂せんどうさんに借りた」


 泉堂。その名前を出されると、納得せざるを得ない。

 泉堂せんどう一郎いちろう。舞台関係者の中にその名を知らない者はいないとすら称される、舞台照明界の首領ドンのような男だ。鹿野からすればただの気の良い還暦過ぎのおじさんなのだが、彼のデザインする照明プランは各舞台から引っ張り凧。本人も大手芸能プロダクションが所持している劇場と年間契約を結び、ひっきりなしに新しい照明プランを作り出しては自社・泉堂舞台照明の社員──照明技師たちを各地に派遣しているというのだから、どう考えてもただの気の良いおじさんなどではない。


「泉堂さん、そういうの持っとるんですね」

「不田房とはあいつが大学生の頃からの付き合いだって言ってたからな。もちろん能世も……というか傘牧場自体が泉堂さんの世話になってる」

「というと?」

「金もない、コネもない、ただ才能だけが突出してる大学生が率いる劇団のために無料で照明プランを提供してくれるような人──泉堂さん以外に思い付くか?」


 首を横に振る。いるはずがない。泉堂はそういう、才能を見抜く才能みたいなのを持っている。


「灘一喜ってのは……ここ」


 劇団傘牧場関係者ファン垂涎のパンフを雑な手付きでパラパラと捲った宍戸の長い指が、キャスト・スタッフの名前がずらりと並んだ最終ページを開いて示す。そこにはもちろん能世春木、不田房栄治(当時の芸名はカタカナで)、それに照明協力として泉堂一郎の名前も並んでいる。


「不田房さんは当時は俳優で……能世さんは戯曲、演出、それに出演も全部兼ねてて……」

「問題の灘は、これだ」

「──?」


 鹿野は大きく目を見開く。

 確かにそう書かれている。


 稽古場代役アンダースタディなだ一喜いっき

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