第一章 灘一喜

第1話 世田谷区、稽古場

 それで──と宍戸ししどクサリは言った。


不田房ふたふさにはしばらく会ってないのか」

「ええまあ。宍戸さんは?」

「俺はほら、家が近所だから」

「ああ……」


 鹿野かの素直すなおは演出助手である。文字通り、演出家の助手。普段は不田房栄治が主宰している演劇ユニット・スモーカーズでの活動がメインだが、公演は一年に一度、多くて二度ほどしか打つことができない。スモーカーズの仕事だけでは、生活が成り立たない。そこで鹿野は不田房とともに仕事をする間にスタッフ・出演者と繋がりを作り、演出助手が必要な現場に組み込んでもらったり、公演当日に劇場で観客の整理をしたり、物販で販売担当をするなど、とにかく様々な形で仕事を請け負っていた。一応は【演出助手 鹿野素直】という名義で生活をしているが、年単位で見ると制作の仕事を手伝っている時間の方が長いかもしれない。


 今は、知り合いの俳優の紹介で演出助手として参加している作品の稽古場で、休憩をしているところだ。


 喫煙所はない。稽古場自体が全面禁煙である。缶コーヒーの蓋を開けながらスマートフォンの画面を見ている鹿野に話しかけてきたのは宍戸クサリだ。宍戸は、舞台監督である。彼もまた不田房栄治のスモーカーズの専属舞台監督であり、鹿野との付き合いも長い。スモーカーズには俳優が所属していないため、正式メンバーは不田房・鹿野・宍戸のスタッフ三人衆だけだ。

 宍戸は、制作補佐・舞台監督補佐として鹿野と同じ稽古場に参加していた。スモーカーズの公演がない時に暇を持て余してしまうのは宍戸も同じである。不田房と同世代の宍戸は舞台監督を本業としつつも数字と法律に強いため、制作部として仕事を振られることも多いという。


 宍戸と不田房は、同じマンションの同じフロアに住んでいる。


「不田房さんには当分会いたくないです」

「例の……霊の件か」

「ギャグですか?」

「言葉の綾だよ」

「どっちでもいいですけど……とにかくああいうの私に見せようとするの、信じられない」


 鹿野が見える人であるということを、知る者は多い。というのも、劇場には良くこの世のものではない存在が姿を現すからだ。理由は分からない。だが、ライブハウスやコンサートホールなどでも幽霊の目撃談が多いという情報から考えるに、定期的に生きている人間が多く集まる場所に幽霊は好んで姿を見せるのではないか──と鹿野は考えている。


 舞台の本番のために入った楽屋で、客席で、鹿野は頻繁に幽霊を目撃する。子どもの頃から見えてはいたが、慣れることはない。いちいち飛び上がって驚く鹿野の姿を見て、一緒に仕事をしている者に「」だと認識されてしまう。それで困ったことは特にないし、寧ろ「自分も見える、仲間がいて嬉しい」と俳優やスタッフに声をかけられて愚痴を言い合うなど良いことの方が多かったのだが──


「不田房さんが……よりによってあん人がうちに能世さんに取り憑いとるやつを見せようとするなんて」


 癪に障る。不田房にだけは、そんな風に、幽霊探知機みたいに使われたくなかった。

 鹿野は稽古場の外にある螺旋階段に腰を下ろしている。隣には宍戸が座っている。稽古場は、五階建てのビルの三階にある。


「不田房もなあ……なんか痩せて」

「あの人別に普段から肥っとらんでしょうに」

「ていうか、病的? つうか」

「……宍戸さん、うちにそういうこと言うて不田房さんのこと心配させようとしてます? ほうじゃったら逆効果ですよ」


 くちびるを尖らせる鹿野に、「違うって」と宍戸は眉を下げて笑う。どちらかというと強面で、冷たく見られがちな宍戸だが、笑った顔は可愛い。


「別に俺ぁ不田房の親でも兄弟でもねえからな。アレが体調悪くても、鹿野と喧嘩しててもどっちでもいいけど」

「喧嘩じゃないですけどね」

「えーとじゃあ……怒らせてても?」

「そう、一方的に怒らせとる」

「そうね。ま、別に関係ないっていうか。それより気になるのがさ、あいつ最近良く能世春木に会ってるんだよな」

「能世さんに……?」


 意外──ではない。いや、意外でもある。両方の感情があった。


 不田房栄治は、大学時代、劇団傘牧場時代の話をほとんどしない。飲み会でも、打ち上げの席でも、その話を振られると明らかに不機嫌になる。以前、傘牧場のファンであったという俳優がスモーカーズの公演に参加した際、何かと過去の話をするよう要求され、最終的には公演後、当該俳優を出入り禁止にしたことさえあった。不田房にとって、劇団傘牧場は既に過去なのだ。済んだ話に過ぎないのだ。

 同じように、彼が能世春木の存在に触れることもなかった。触れる機会があるとすればそれは、──対抗意識を燃やしている時だろうか。

 去年だったか、能世が、韓国演劇界の若手トップと呼ばれている俳優を日本国内の公演に招いたことがあった。その際の不田房の荒れ具合といったら、今思い出しても笑えてくる。「俺だって一緒に仕事したい」「俺の方がいい戯曲書ける」「俺の方がいい演出付けられる」と散々喚き散らし駄々を捏ねており、大人の駄々は見苦しい、と鹿野と宍戸は言い合ったものだった。


 だから──確かに不思議ではあった。『代役アンダースタディ』とはいえ、不田房が能世春木のオファーに応じたことが。


「能世さんに会ってる〜ってLINEとか来るんですか」

「来る」

「ウザ……」

「普通にウザいよな。あと俺能世春木の戯曲あんま好きじゃないから別に会いたくないし」

「そう言って断ってるんですか?」

「大人だから多少はオブラート使うけど……でも結構しょっちゅう一緒に飲もうって連絡くる」

「なんなんですかね?」


 眉間に皺を寄せる鹿野に、「さあなあ」と宍戸が気のない声を出す。


「急に懐かしくなったんじゃねえの、大学の頃の友達がさ」

「そういうもんですかね。それで私を雑に扱ったっていうんなら、マジでコンビ解消ですけどね」

「コンビ解消したら俺と組むか〜?」

「舞監と演助のコンビですかぁ? 仕事来ますかね?」

「宍戸さんの人脈舐めんなよ」

「頼りになるぅ〜」


 鹿野ちゃん、クサリさん、稽古始まるよー、と声が聞こえる。出演者のひとりであり、鹿野と宍戸両方の知り合いであるきさらぎ優華ゆうかという女性俳優だ。鹿野をこの稽古場に誘ってくれたのも、優華である。


「行きますか。……そういえば、宍戸さん」

「うん?」


 空になった炭酸水のペットボトルと、鹿野のコーヒー缶を捨てる宍戸の背中に、鹿野は声を掛ける。


「不田房さんの知り合いで、ナダって人知ってます?」

「……ナダ?」


 宍戸が黒縁眼鏡の奥の瞳を大きく見開き、それからひどく険しい表情になる。


 灘。


 人名なのか、やはり。

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