第3話 翡翠の指輪
「こんにちは、
男はそう、大層愛想良く挨拶をした。知っている。
「すみません、僕もコーヒー貰っていいですか」
「能世、バラシ終わったのか?」
「終わった。っていうか僕がいても別に役に立たんし。
「打ち上げは?」
「それは逆に僕が聞きたい。不田房も来るだろ? あ、良ければ鹿野さんも……」
「結構です」
食い気味に断り、「帰ります」と鹿野は不田房に囁いた。
「ちょっとちょっと鹿野。俺と鹿野の仲じゃん」
「私と不田房さんがどんな仲だか良く分かりませんが、私はホラー映画は好きですけど本物の幽霊は得意じゃありません!」
「本物の、幽霊」
口を挟んだのは能世だった。ヤバい、と思ってくちびるを引き結んだ時にはもう遅かった。
「いるの?」
「……!」
カウンター席に腰を降ろした能世が、体ごと振り返る。鹿野は一瞬心底不田房のことを恨む。こんなの、コンビ解散の危機だ。
いる。
ああ、いるとも。
能世の両肩に手が乗っている。白い手だ。男性のものか、女性のものか、そこまでは分からない。左手の中指に緑色の──おそらく翡翠の指輪を嵌めている。
禍々しい手だ。
決して守護神だとか、ご先祖様だとか、そういう縁起のいいアレではない。
あの両手は、能世を地獄の底に連れ込もうとしている。見えてしまう鹿野には、ほとんど反射でそこまで理解できる。
こんなものを相棒──一介の演出助手に過ぎない自分に見せようとするなんて、不田房栄治はいったい何を考えているのだ。不田房とは一〇年の付き合いだが、それでも理解できない面はたくさんある。不田房だってそうだろう。お互い様だ。しかし今回のこれは、あまりにも悪質だ。
くちびるを噛む。後退りをする。「大丈夫かい」とマスターが声をかけてくれる。大丈夫ではない。「鹿野」不田房の声がする。馬鹿野郎。そう応じたい。
鋭く息を呑む。
「翡翠」
「!」
色眼鏡を外した能世が、切長の目を大きく見開いた。
この男、心当たりがある。
「翡翠の指輪」
「マジで……? 鹿野さん、本当に見えてるんだ」
「だから言っただろ!」
不田房が胸を張っている。張り倒したい。
と、マスターが、「バカたれ」と大きく声を上げた。
「不田房おまえ──そりゃ俺も話を聞きたがりはしたが、本当に、本物はまずいだろう」
「お祓い、お祓いに」
マスターが味方に付いてくれたことで、少しだけ呼吸がしやすくなるのを感じる。
「お祓いに行くべきです! 絶対に!!」
「……友達なんだよね」
腹の底から声を出し、その反動で床に座り込んだ鹿野を見下ろしながら、能世が呟くように行った。「鹿野」と駆け寄ってきた不田房の手が肩に触れるのが分かる。「悪かった」という短い謝罪に、「どアホでは?」と鹿野は力なく笑って応じる。
「うちは……ほんまに見えるだけで……他んことはなんもでけんのに……」
「翡翠の、指輪とか言ったか?」
「ええ?」
言った。だって、見えたから。
見上げた不田房の顔から、血の気が引いているのが分かる。
白い手。左手の中指に翡翠の指輪。それがどうしたっていうんだ。
「──
「不田房さん」
「上にタクシー呼んだ」
とマスターが声をかけてくれる。ありがたい。
喫茶店は雑居ビルの地下一階にある。不田房と能世には申し訳ないが、ああいう──怪奇現象に積極的に関わる気持ちは、鹿野にはなかった。
見える人間全員が寺生まれのTさんのような気概を持っていると思われては迷惑だ。
「あ……? タクシー?」
「や〜久しぶり鹿野ちゃん! バイク大丈夫? 後ろ乗れる?」
「タクシーやないじゃないですかぁ!!」
階段を上り終えた先にいたのはレザージャケットにヘルメットを小脇に抱えた鹿野より少し年下の男性で、名を
「タクシーじゃなくてごめぇん。なんかおじいちゃんから、鹿野ちゃんおうちに送ってあげてって連絡があって……」
「ああもう、タクシーやのうてもええです別に! 送ってください実家まで」
「実家? 都内だっけ?」
「二十三区外ですわ。住所言います?」
「お願いしまーす。あ、ヘルメット被ってね」
タクシーに乗れたら寝て帰るつもりだったが、相手がバイクともなるとそうはいかない。電車に乗って人混みに揉まれるよりはだいぶマシだが、と思いながら鹿野は響野憲造に自身の実家の住所を伝える。
「ここだと、電車で帰った方が早くない?」
「人混みが嫌。無理」
「なるほど了解。では出発!」
鹿野はもう、能世春木が背負う何某かの怪奇現象にも、それに積極的に関わろうとする不田房栄治とも、当分距離を取る気でいた。
少なくとも鹿野素直は、そのつもりでいたのだ。
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