第3話 世田谷区、夜パフェ②

 稽古場代役アンダースタディ──その役割は、この春、不田房栄治が能世春木に任されたものとほとんど変わらない。有事の際に舞台に立つため、或いは演出家と俳優の二足の草鞋を履いている能世の代わりに稽古場で演技を行うための『代役アンダースタディ』。小さな劇団では、演出助手が稽古場代役を引き受けるケースもあると聞く。鹿野素直には残念ながら演技の才能がないため、不田房に稽古場代役を申し付けられたことはないが──


「稽古場代役……よりによって解散公演で?」

「と、思うだろ? こっちも見てみろ」


 宍戸が次々に小冊子を押し付けてくる。どれも劇団傘牧場のパンフレットで、そのすべてに『』のなだ一喜いっきの名前が印刷されている。


「アンダー……としてのみ、傘牧場に関わってたってことですか? なんなんですか?」

「俺も傘牧場が動いてた時期には演劇とは何の関係もなかったからな。泉堂さんにちょっと話を聞いてみたんだ。そうしたら」


 もう死んでるって。

 宍戸は、低くそう述べた。

 聞きたくなかった、そんなこと。

 あの手が──翡翠の指輪を嵌めた白い手が、本物だということになってしまうではないか。


「勘弁してくださいよぉ……」


 がっくりと肩を落とす鹿野に「まだ続きがあるんだよ」と宍戸は言う。もう何も知りたくない。これ以上灘一喜に関する情報を脳内に入れたくない。それなのに。


「なんで死んだんですかぁ……」


 口が勝手に問いかけてしまう。嫌だ嫌だ。不田房栄治という、演出家としての才能はあるものの人格にかなりの難がある人間と一〇年もべったり過ごしてしまったせいで、こんな──深く知らなくても良いようなことに、反射的に首を突っ込んでしまう生き物になってしまった。全部不田房のせいだ。コンビ解散だ。


「自殺」

「左様でございますか……」

「ただ、原因が分からない」

「人間、急に死にたくなっちゃう時ってあるんじゃないですか? 知りませんけどぉ……」

「この灘って男はな」


 パンフレットの表紙をトントンと叩きながら、宍戸が続ける。


「能世のだったんだよ」

「──はあ?」


 脳味噌が爆発しそうだ。情報量が多すぎる。


「それも泉堂さん情報ですか……?」

「泉堂さんはそういう色恋沙汰には興味ねえからなぁ。探偵を雇った」

「誰が?」

「俺が」

「なぜ?」

「なんでだと思う?」


 宍戸がじっと見詰めている。鹿野も真っ直ぐに見詰め返す。このまま世界が終わる日まで見詰め合っていても絶対に恋に落ちないのが、互いの良いところだと鹿野は思っている。


「クイズ面倒臭いっす。なんでですか。もう帰りたい」

「灘という男は、二年前に死んだ」

「は!?」


 声が裏返る。シー、と宍戸が自身のくちびるの前に人差し指を立てる。


「最近じゃないですか」

「その通り。今年に入るまで不田房も知らなかったらしい」

「不田房さんも? ……っていうか、今回能世さんの舞台の代役に不田房さんが呼ばれたのって……」

「その通り。灘がいないからだ」


 灘一喜──不田房や能世と同じW大学で劇団傘牧場のメンバーだった男。俳優ではなく、演出助手でもなく、舞台監督でもなく、稽古場代役として傘牧場に所属していた男。

 能世春木の恋人だった男。


「能世さんって結婚してませんでした? お子さんもいますよね?」

「二年前に離婚した」

「そうですよね……なんかそれはネットで見た記憶があります。……ん? あれ?」


 二年前に離婚。

 二年前に──自殺。


「どうして時期が被ってるんですか?」

「そう、それなんだよな」

「……宍戸さん、私を何に巻き込もうとしてるんです?」


 傘牧場のパンフレットをまとめて宍戸に押し付けながら、鹿野は鋭く相手を睨み付ける。


「不田房さんにも言いましたけど、私には確かにおばけが見えます。でも見えるだけですよ。その他のことは何もできない」

「知ってる」

「だったらどうして」

「実はな」


 宍戸の端正な顔が、ぐっと近付く。

 耳元で、低い声が囁いた。


 ──俺にも見えてるんだ、灘らしき男の手が。

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