第2話 新宿区、喫茶店⑦
鹿野と宍戸は、新宿歌舞伎町の純喫茶カズイにやって来た。宍戸がどうなのかは知らないが、鹿野は不田房に「もう関わるな」と言われて以来の来訪だった。
地下階に通じる階段をゆっくりと降り、扉を押し開ける。ドアベルが涼やかに鳴った。
「いらっしゃい」
マスターが穏やかな声で迎えてくれる。「こんにちは」「お久しぶりです」と鹿野、宍戸は口々に挨拶をする。
店内には先客がいた。コオロギ
「どうも、おふたり」
「やっほー素直ちゃん久しぶり!」
アイスコーヒーのグラスを片手ににこりと微笑む透夏と、ふにゃふにゃした笑みを顔いっぱいに浮かべるカンジ。鹿野をカウンターのいちばん奥の席に座らせた宍戸が、「アイスコーヒーふたつお願いします」と注文している。
「どうも……いや、あれ?」
「あ、なんでこいつらがここにいるんだ? って思ったでしょ素直ちゃん。傷付く〜!」
「別にこいつらとか思ってませんが……なぜ透夏さんとカンジさんがこのお店を知ってるんだろう、とは思いましたが……」
丸テーブルを挟んでカンジの正面に座る透夏が、
「『底無活劇』」
と短く言った。途端、店内の空気が冷ややかに引き締まるのが分かる。
「結局北海道公演もポシャったでしょ」
「ですね……」
あの日のことを思い出す。まだ一週間程度しか経過していないけれど。間宮探偵が泉堂舞台照明に駆け込んできた時点で、株式会社ジアンが『底無活劇』の北海道公演続行を発表するまでに四時間しか残されていなかった。それで鹿野、宍戸、間宮は世田谷区にある株式会社ジアンが所持している稽古場に走って──途中でコオロギ透夏と薄原カンジに連絡をして、幸いにも世田谷の稽古場付近で仕事をしていたふたりに何かが起きた時の対応を頼み込んで──結局何かは起きてしまったのだけれど。
不動繭理の突然の昏倒の原因は今も分かっていないらしい。間宮によると不動は現在も入院中で、意識は戻ったものの完全に面会謝絶の状態。「名探偵でも入り込めないレベルの厳戒態勢」ということなので、不動から直接話を聞くのは不可能だ。
石波小春は──母親・不動繭理への暴力行為で一旦警察に拘束された。17歳という年齢もあり、また書面上の父親である
「おふたりは、今後の仕事は?」
「あ〜
「俺も俺も〜。透夏とも結構現場かぶるし……」
「じゃあおまえらがここにいる理由全然ないだろ」
アイスコーヒーのグラスに直接口を付ける宍戸が、呆れたような声を上げる。視線を合わせた透夏とカンジは、
「そうは言いますけどね宍戸さん。気色悪いっすよやっぱり。俺ら、いったい何に巻き込まれたんですか?」
透夏の台詞に、宍戸は無言で眉を寄せる。
何に?
そんなこと、鹿野にだって分からない。
誰が、どうして、何のために。
短い沈黙を破るかのように、ドアベルが鳴る。
「どうも〜……お邪魔しますう〜……」
いつも通りの長身、いつもの眼鏡、見慣れたTシャツにデニムにやたらとデカいトートバッグ。
いつもの
いや、不田房だけではない。
「どうも、この度はご迷惑をおかけしまして」
不田房の背後から顔を覗かせたのは──
宍戸がちらりと視線を寄越す。(見えるか?)の顔だ。鹿野は小さく首を横に振る。何も見えない。不田房と能世だけが、純喫茶カズイの入り口に立っている。
灘一喜も、石波小春もいない。
透夏とカンジが陣取っているのとは別の丸テーブルに着いた不田房と能世はマスターからアイスコーヒーを受け取り、
「まず──コオロギくん、薄原くん。本当に申し訳なかった」
朗々と、能世春木は言った。
「まさか
「ああ……まあ……」
そういう台詞を言っているようだ、と鹿野は思った。能世の喋り方はハキハキとしていて爽やかなのに、どこか胡乱なものを感じる。金縁眼鏡のつるを撫でながら応じる透夏も、なんとも言い難い表情をしている。
「僕個人としては今後ともふたりに仕事を依頼したいと思っているんだけど……どうかな?」
「ああ……いいんじゃないですか? なあカンジ……」
「俺はもう面倒臭いのはごめんですね〜」
「おいカンジ」
「だってさ能世さんは別にジアンから独立するわけじゃないんでしょ? 不動さん……えー弓引社長? から離れるわけじゃないんだったら、また何か起きるかもしれないじゃないですか」
「ジアンは僕が引き継ぐことになったよ」
「え?」
不田房は黙りこくっている。能世の爽やかなひと言にも、顔色ひとつ変えやしない。
「能世さんが……ジアンを?」
「めっちゃいっぱい所属俳優がいるのに? 社長やるんですか?」
口々に尋ねる透夏とカンジに能世は優しく微笑み、
「まあ、弓引もすべての業務をひとりでこなしていたわけじゃない。彼女のブレインごと僕が引き受けるって形で……娘のこともあるし……いずれ弓引が復帰する可能性だってあるわけだからね」
「なるほど」
口を挟んだのは宍戸だった。
「お嬢さんの今後のことを考えたら、書面上の父親であるあなたが手を上げるのが妥当でしょうね」
「書面上」
能世がまた笑う。
どうして笑っているんだろう。
鹿野には理解できない。
「元弁護士さんでしたっけ、宍戸さん……冷たい言い方をしますね。僕は僕なりに、妻と娘のことを大切に思っているんですよ」
「左様で。まあ俺にはあんまり関係のない話です。俺個人としてはジアンとも、それにあなたとも仕事をするつもりはないですし、こっちの」
と鹿野の手首をぐっと掴み、
「鹿野素直も同じです」
「鹿野素直さん」
能世の視線が真っ直ぐに鹿野を射抜く。
「このお店で最初に会った時にも言ってたよね。……まだ見える? 翡翠の指輪を嵌めた手」
「──あの手は──」
灘一喜のものではない。不動繭理と能世春木に憎しみを抱く、愛した男を失った石波小春の手、生きている人間の手だった。
「あの、手は」
宍戸に庇われている。それでも鹿野には見えてしまう。
見えるだけじゃ何の意味もないというのに。
「……能世さん、もう、帰った方がいいと思います」
振り絞るように言った。
「能世」
不田房栄治が口を開く。
「帰ろう」
「……そうだね。それじゃあ、失礼します」
不田房が能世を地上階まで送ってゆき──五分も経たないうちに戻ってくる。
鹿野はカウンターに突っ伏している。宍戸は煙草に火を点けている。コオロギ透夏はひんやりと冷えた目を不田房に向け、薄原カンジも先ほどまでの饒舌が嘘のように黙りこくっている。
「不田房さん」
カウンターに突っ伏したまま、鹿野は呟いた。
「あん人とね、もう関わらん方がええですよ」
何か見えたのか、とは誰も聞かない。
これ以上もないほどに、鹿野が見ていたからだ。
「能世さんより背が高くて、能世さんより痩せてて、細面で色白で、眉毛が薄くて、くっきりした二重瞼」
ひと息に言う。忘れてしまわないうちに。脳が強制的に記憶を消さないうちに。
「つやつやの黒髪、まだ二十代って言われても信じたくなるぐらい綺麗な肌、でも肌の色は青白くて少し不健康、くちびるが厚くて、ぽってりと赤い」
忘れてしまう、忘れてしまう、忘れたい、一刻も早く。
「首が長くて、鎖骨が綺麗。胸元を少しゆるめた服は誰の趣味じゃったんですかね。それで──左手の薬指に、翡翠の指輪」
「……灘だ。灘一喜だ」
「そん人が、能世さんの、背後におった」
背中から能世を抱きすくめて、灘一喜は笑っていた。
鹿野は幾度か灘の笑顔を見ていた。
だが、今までに目にしたどの笑顔よりも──禍々しいものを纏って灘は笑っていた。
「能世さん、長くないじゃろ。うちにも分かる」
「そ、れは、どういう」
「うちらにはどもこもでけん事情で能世さんはもう終わりなんじゃと思う。石波さんは灘さんのことを愛しとったて不動さん言うとりましたよね。灘さんが能世さんを愛するみたいに──って。そんなレベルじゃないですよ。灘さんがどうして弓引家に入り込んだのか……どうして能世さんにできない父親役を引き受けたのか……灘さんは……」
灘一喜は能世春木を諦めていなかった。
ずっと。
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