第5話 世田谷区、稽古場②

 ──翌日。鹿野は集合時間より少し早めに稽古場に到着する。不田房と仕事を始めた頃からの癖で、どうしても他のキャスト・スタッフよりも先に稽古場に入って掃除をしないと気が済まないのだ。今回の演出家──鹿野より少し年上の、桃野もものももという名の男性だ──は「鹿野さんが掃除とか全部しなくてもいいよ」「帰りにみんなでやるから大丈夫だよ」と何かと声をかけてくれるので、できるだけ桃野の方針に沿っているつもりではいるのだが、


(三つ子の魂百まで)


 ロボット掃除機をフロアに走らせ、キャスト、スタッフが使う長テーブルの上を拭きながら鹿野は嘆息する。これも全部不田房のせいだ。「俺と鹿野は、毎日いちばんに稽古場に入って掃除をする! っていうルーティンでいきたいんだけど、どうかな?」──一〇年近く前。まだ学生だった鹿野が初めて学外の公演に参加する際、不田房は満面の笑みでそう尋ねた。首を横に振る理由はなかったから「わかりました」とだけ応じた。


 それから本当に、色々なことがあった。現場ではキャストがいちばん偉く、スタッフを手足のようにこき使っても良いと勘違いしている出演俳優。逆に、キャストのためにスタッフが動かなければ舞台が成立しないのだから、とキャストに無闇矢鱈と厳しく当たるスタッフ。もしくはそのどちらでもなく、一緒に舞台を作り上げるキャストとスタッフは対等でいなければならないのだから、と無駄に毎日飲み会を開こうとする者──そのどれもが、鹿野にとってはどうでも良い存在だった。


 鹿野素直には不田房栄治がいる。不田房栄治という人間は圧倒的に正しく、はなかったけれど、迷いも多く、揺らぐことも少なくない、不安定で、いつも足元が危うく、それでいていつもへらへらと気の抜けた笑みを浮かべて──「鹿野は何も心配しなくていいよ。俺がいる!」。


(しかし解散かな、これは、マジで)


 幽霊が見える、と不田房に打ち明けた日のことを思い出す。鹿野が学生ではなくなって、しばらく経った頃のことだったと記憶している。あの時は確か、劇場に幽霊がいて、出演俳優の中に見える人がいたのだった。彼があまりに怖がるから、鹿野と不田房は劇場を管理している会社に許可を取り、真夜中の劇場に乗り込んだ。そこで鹿野は、出演俳優の言葉通りのモノを見た。客席の最前列に座り──本来その席は所謂見切れ席、舞台上を良く見ることができない席で、不田房が主催する公演では販売されない座席だった──真っ暗なステージを見上げてハラハラと涙を流す年若い女性。

 鹿野は不田房の背中を蹴り上げるようにして劇場を飛び出し、その足で泉堂舞台照明の持ちビルへと向かった。泉堂一郎が管理しているビルは、地下一階が稽古場で、地上三階がそれぞれ一階は総合受付兼物置、二階は有限会社泉堂舞台照明の事務所、そして三階は会社の主人である泉堂一郎や──若い照明スタッフの生活が安定するまで寝床として提供されており、その夜泉堂一郎は三階の寝床に泊まり込んでいた。


 真夜中にビルを訪ねてきた鹿野と不田房を泉堂は訝しげな顔で迎え、だが、鹿野の「世田谷の碧玉へきぎょく劇場で誰かが亡くなったことはありますか?」という問いに一瞬で目が覚めたような表情を見せた。


 碧玉劇場の中では、死人は出ていなかった。だが、劇場創設から長く勤めた女性スタッフが、つい数ヶ月前に事故で亡くなっていた。彼女は、元劇団傘牧場のメンバーである不田房栄治が『スモーカーズ』という自身のユニットを率いて行う公演を、大層楽しみにしていたのだという。


 不田房と鹿野は劇場側に頼み込み、座席の一角に『関係者席』を設けた。女性スタッフの遺族から彼女が愛用していたストールを借りてその席に置いた。公演のあいだ、彼女は毎日現れた。そうして千穐楽、無事公演を終え、舞台セットを解体し、公演に参加した者たちが劇場を退去するという夕刻──「ありがとう」。そんな声が、風に舞うようにして聞こえた。初めに彼女を見付けた出演俳優の耳にも、その声が届いていたのだという。「もう怖くないよ」と打ち上げの席で俳優は笑っていた。「だって、公演をいちばん楽しみにしててくれたお客さんなんだから」──と。


 以降、碧玉劇場には幽霊は現れていないという。


(なんか……あの時どさくさに紛れて言っちゃったんよな、不田房さんと泉堂さんに……)


 生きてない人間が見えるんです、と訴える鹿野を、不田房も泉堂も丁重に扱ってくれた。信じてくれた。その結果、碧玉劇場での公演は良い形で終わりを迎えた。

 その後も、別の劇場や稽古場で幽霊を見かけたことはあるし、碧玉劇場の女性のように優しくはない、攻撃的な存在とも遭遇したことはある。

 けれど。

 不田房が、鹿野に幽霊を見せようとしたことは一度もなかった。


(やっぱり……解散じゃあ)


 解散、解散、とぶつぶつ呟きながらテーブルを拭く鹿野の背中に「鹿野ちゃん!」と大きな声がかかった。

 出演俳優のきさらぎ優華ゆうかだ。


「優華さん? 早いですね?」

「そうやなくて! 何呑気に掃除なんかしとるん、大変なことになっとるよ!」

「……え?」


 眉根を寄せる鹿野の目の前に、優華が自身のスマートフォンを突き出す。ニュースサイトのトップページが映し出されている。


【東京都、イッセンマンシアター『底無活劇』にてセット倒壊の事故 出演者・能世春木が大腿骨骨折の大怪我】


「はあ!?」


 腹の底から声が出る。「この公演、アレやろ。不田房さんが代役アンダースタディで稽古場入っとったっていう……」と心配そうに尋ねる優華にコクコクと首を縦に振りながら、鹿野は慌てて自身のスマートフォンをデニムの尻ポケットから取り出す。

 不田房から送られるLINEは、すべて未読無視していた。だが。


『鹿野』

『やべえことになっちゃった』


 送信時間は、今日の──十五時。ニュースサイトに記事が掲載されたのは今日の十五時半で、『セット倒壊』『能世春木が大怪我』以外の情報は何も載っていない。


 白い手のことを思い出す。


 あの手は本当に、能世春木の恋人であり稽古場代役アンダースタディであった灘一喜の手なのか?

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