第6話 新宿区、喫茶店②
能世春木作・演出の『底無活劇』は二日間の休演を挟み、代役・不田房栄治が能世春木の代わりにステージに立つという形で再開した。突然の休演に戸惑う観客もいたし、能世の怪我を気遣う者、チケット代の払い戻しに躍起になる者、そして劇団傘劇場時代以来、本当に久しぶりに台詞の多い役を負って立つ不田房栄治の姿に熱狂する者──と、周囲の反応は様々だった。
イッセンマンシアターでの公演は
「これ全部……不田房さんが行くんですか」
日曜日。鹿野が参加している稽古場の休憩日でもある。鹿野と宍戸は、新宿の純喫茶カズイで顔を合わせていた。『底無活劇』の公式ホームページを改めて確認し、鹿野は卒倒しそうになっていた。多い。あまりにも公演日数が多い。正直、能世春木本人が舞台に立った日数よりも、今後不田房栄治が舞台に立つ時間の方がずっと長い。
大丈夫なのか、
「あん人は……」
「今のところ評判はいいな」
カウンター席で頭を抱える鹿野の傍らで、宍戸は自身のスマートフォンを弄っている。SNSに流れてくる感想や『底無活劇』に触れたブログ、それに舞台評論家が書いた記事などを確認しているようだ。
「今後はもっと役者をやれ、とか書かれてるぞ」
「勝手なことを!!」
本当に勝手だ。鹿野は、不田房がなぜ役者を辞めたのかを知らない。知る必要もないと思っている。不田房が、フタフサエイジという役者の顔を捨て、不田房栄治という演出家として生きると決断するまでには、それなりに色々な事情があったのだろうと推察はできる。でも訊かない。余計な口出しはしない。他人の人生だ。それなのに。
「なんだ鹿野、不田房とはもう解散するんじゃなかったのか」
「解散するにしても失礼でしょう、もう役者はやらん言うとる人にそがなこと言うんは!!」
「あはは」
コーヒーカップを片手に、宍戸が乾いた声で笑う。
「やっぱ解散しない方がいいと思うよ、俺は」
「……解散する時には、宍戸さんとも解散です。さようなら」
「冷てえなあ」
軽口を叩き合えているあいだはまだ良い。人間と人間の仲が本当に終わる時は──もっと容赦無く、あっさりしている。
「セット倒壊、ってニュースにはありましたけど」
「ああ。俺も休演日にSOS貰って現場に入った」
「どうでした」
「どうもこうも……なんでこれが壊れるんだ? って感じだったよ」
「……どっちの意味です? 頑丈だった? 雑だった?」
「前の方。『底無活劇』の舞台監督はコオロギ
「ススキ大道具株式会社の?」
「そう」
舞台監督のコオロギ透夏の名前は、比較的大きめの公演で良く見かける。同業者である宍戸がこんな風に言うのだから、適当な仕事をするタイプではないだろう。それに、大道具担当の薄原カンジ。彼は父親の代から舞台のみならずテレビドラマ、映画などにも関わっている大道具を制作する会社の二代目社長で、やはり雑な仕事をする人間ではない。
それではなぜ、セットは倒壊したのか。
「『底無活劇』のセットはかなりシンプルで」
と、宍戸が上着の内ポケットから折り畳んだ紙を取り出した。舞台仕込み図だ。
「イッセンマンシアターは客席の段差が控えめだから、後部座席の客にも良く見えるよう、舞台の床を少し高めに作ってある」
木製の床に連動するようにして、木賃宿を模した巨大な書き割り──建物の絵が描かれた木の板のことだ──がセットされている。今回のセット倒壊というのは、書き割りが壊れ、ひとり舞台上にいた能世春木の上に倒れ込んだという事故だった。
「書き割りの重さに耐えかねて……というのは俺にはどうも信じられんのだが、倒壊に能世春木が巻き込まれた際、舞台上を底上げしていた床も割れて」
「いやいやいやいや。ちょっと待ってください宍戸さん」
「気持ちは分かるよ。俺もちょっと待てよって思ったもん」
書き割りが壊れて俳優の上に倒れ込んだら、怪我をする。それは理解できる。だが、倒れてきた書き割りの重みに耐えきれない床──とは?
「書き割りよりもっと重い人間が何人も行き来するでしょうが。なんなんですかそん床」
「だよなぁ。でも結局それで能世春木は大腿骨骨折してるわけで」
「……」
不田房は? と尋ねたかった。休演日を終え、再開した『底無活劇』。代役として板の上に立つ不田房栄治は、無事なのだろうか?
「不田房は大丈夫なのか?」
口を開いたのは、純喫茶カズイのマスターだった。宍戸は僅かに目を眇め、
「一応は。仕込み直しをするために俺も劇場に呼ばれたんですけど、コオロギも、それに薄原も、なぜ床が割れたのか分からないって言うんですよね。実際俺も現場を見てみて……そんな脆弱な作りをしているようには見えなかったから、本当に謎で」
「でもまあ、無事なのか」
「今のところ。一応コオロギから毎日連絡が来てますので、東京公演はこのまま駆け抜けられそうです」
大阪から始まるツアー公演では、それぞれの舞台の特性を生かした仕込みを行うため、ステージの底上げは行わない予定だという。
「不田房さん……北海道まで行くんか……」
「心配か?」
「いや別に」
「即答」
宍戸が笑う。少しばかり腹が立つ。
「それより! 不田房さんのことはええんですよ。それより、能世春木が入院して、不田房さんが代役でツアーに出て、うちらはどないんするんです? 何か調べるんですか?」
「おお、それだ。例の……手の件な」
カウンターの中で、マスターが顔を顰めている。鹿野は溜息を吐く。
「それと繋がっとるんですか……これは」
「まだ分からん。そこを詳らかにするために、」
「お待たせしましたー!!」
純喫茶カズイの入り口扉が、勢い良く開く。ドアベルがこれ以上もないほどに大きな音で鳴った。
レザージャケットを羽織り、小脇にヘルメットを被った青年が立っている。純喫茶カズイのマスターの孫・
「探偵をお連れしましたっ!」
「どうもどうも〜、この度はご依頼ありがとうございまぁす!」
長身の響野の肩の向こうから顔を覗かせた鮮やかな橙色の髪の女性を、鹿野は知っていた。
宍戸の旧い友人。私立探偵、
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