第7話 新宿区、喫茶店③

 SNSが騒々しい。


 鹿野は小さく息を吐き、スマートフォンの電源を切って鞄に放り込んだ。いつもこうだ。いつだってこうだ。舞台の上で、外で、何らかのトラブルが起きると、無関係な人間ほど嬉々として参加したがる。何の根拠もない噂話を、まるで真実であるかのように匿名の世界に放流する。


 今回の『底無活劇』で起きた事故に関してもそうだ。まず、能世のぜ春木はるきに対する大量の罵詈雑言が目に付いた。スタッフに対して当たりの強い人間だから、わざと書き割りが倒れてくるように仕込まれた。この説を通そうとすると、宍戸の知人である舞台監督のコオロギや、大道具を担当した薄原が悪意を持って仕込みを行ったということになる。冗談じゃない。続いて目に付くのは共演者との色恋沙汰で揉めていた説。関係者を名乗る匿名アカウントが「能世さんは女優と見れば手を出していた」「この公演をめちゃくちゃにしようと考える女の子がいても仕方ない」──? 関係者なのに匿名で何の根拠もない情報を発信しようとしているは? こういう人間は大方関係者でもなんでもないし、なんなら劇場に足を運んだことがない、更に言えば能世春木が手がけた作品──舞台でも、ドラマでも、映画でもなんでもいい──に触れたこともない、本物の野次馬である可能性が高居。鬱陶しい。訳知り顔で嘘を振り撒くんじゃない。


「いやあ、色々書かれてるわねえ」


 鹿野がスマホを片付けるのと入れ違うようなタイミングで、探偵──間宮まみやカナメが声を上げた。間宮は宍戸よりも少し若いぐらいの年代の探偵で、女性で、背が高く、いつも派手な髪色をしていて、右手の小指がない。鹿野が見てしまった幽霊の関係や、それ以外に起きた色々な事件や事故に関して、過去数回鹿野は間宮と顔を合わせたことがあった。


「全部嘘ですよ」

「あ、鹿野ちゃんお久しぶり! 元気?」

「どうにか」

「鹿野ちゃんがここにいるってことは……あれ? 宍戸も鹿野ちゃんもイッセンマンシアターの事故現場には居合わせなかったってこと?」


 意外そうな声を上げる探偵に、鹿野と宍戸は揃って首を縦に振る。今回は、不田房栄治と、鹿野素直・宍戸クサリは完全に別れて仕事をしていたのだ。

 なるほど、なるほど、と頷きながら間宮は店内に二つしかないテーブル席の片方に腰を下ろす。祖父から水が入ったグラスとコーヒーカップを受け取った響野きょうの憲造けんぞうが、いそいそと間宮のために居心地の良い環境をセッティングしている。


「だがおまえは、イッセンマンシアターの人間から情報を引き出してあるんだろう?」


 カウンター席に腰掛けたまま、宍戸が尋ねる。煙草に火を点けながら、「探偵ですので」と間宮はあっさりと応じる。


「事故じゃったんですよね?」


 身を乗り出して鹿野は尋ねた。間宮は首を縦に振った。


「ただの。少なくとも、私が接触した劇場関係者はみんなそう言ってたよ」

「よかっ……」


 いや、


 舞監コオロギ透夏、大道具薄原カンジという現代舞台演劇界に於ける若手最高の腕を持つふたりが組み立てた舞台が、『ただの不幸な事故』として倒壊した、だって?


 有り得るのか? そんなことが?


「おー鹿野ちゃん。腑に落ちない顔してるわねぇ」

「そりゃあ……その……」


 うまく言えない。怪奇現象であれば良いとは思わない。この世のものではないナニモノかが能世春木がたったひとり舞台上にいるタイミングを狙って──悪意を持って舞台を破壊したなんて──そんなこと、絶対にあってはならない。

 でも、ただの事故だったとしてもそれはそれで大問題だ。だってさっき宍戸も言ってたじゃないか。「なんでこれが壊れるんだ?」って。

 フィルターぎりぎりまで吸った紙巻き煙草を灰皿にねじ込み、宍戸の顔を見上げる。眼鏡の奥の瞳を細めた宍戸は、じっと間宮を見詰めている。響野は壁の花になっている。


「ま、舞台のことは舞台の人。餅は餅屋。私が首を突っ込んでどうこうなる話じゃない。それよりも例の、翡翠の指輪の話をしようじゃありませんか」


 宍戸はどこまで間宮に話をしたのだろう。そういえば、宍戸は自分にも例の手が見えると言っていた。いったいどのタイミングで、どんな風に例の手が宍戸の前に現れるのかを、鹿野は聞いていなかった。


「はいこれ」

「おう」


 間宮が差し出す封筒を、響野が受け取ってカウンター席まで運んでくる。中には大量の──写真の束。

 古い写真だ。色褪せている。でも、そこに写る人間たちの顔を鹿野は知っている。


 能世春木。

 不田房栄治。

 それに、


「こいつだ」


 能世春木の傍らにはにかんだような笑みを浮かべて立つ青年──「」。

 死んだ男の名前だ。


「こん人が……」

「何が言いたいのか、まあ俺でも分かるよ。綺麗な顔してるよな」

「……ものすごい美形、ですね」


 綺麗、美形、そんな言葉ではおさまらないほどに、華やかな美貌を持つ男性だと思った。古びた写真の中でも、灘が写っている箇所だけ奇妙に発光しているように思える。この写真は? と宍戸が尋ねる。卒業旅行の写真だよ、と間宮が応じる。


「卒業? ……大学の?」

「そう。劇団傘牧場の最終最後の公演は台湾で行われた。現地の劇場から招聘を受けてね。で、観光も兼ねて傘牧場とその関係者たちは海を渡ったというわけさ。一〇年以上も前の話だけどね」

「あっ、これ、泉堂さんじゃ」


 傘牧場に所属する学生たちに混ざって、今よりかなり若い泉堂が楽しげに何かにカメラを向けている──姿が写真に残されている。泉堂も、個人的に観光旅行の思い出をカメラで撮影している姿を撮られるとは思っていなかったのだろう。とんでもなく無防備だ。


「不田房もいるな」

「おりますね」

「あんま変わってないな」

「……っすね」


 カメラの前に気の抜けた笑顔を晒す学生時代の不田房栄治。それに能世春木。そして能世と腕を組み、嬉しそうにカメラに向かって手を振る灘一喜──


「こっちの女性」

「え?」


 宍戸が、何枚目かの写真を指先で示す。小柄で、小顔。スッと通った鼻筋と切長の目が印象的な、灘とはまた異なる顔立ちの美形。


不動ふどう繭理まゆり……」

「……不動? 繭理!? 不動繭理も傘牧場のメンバーだったんですか!?」


 声が裏返るのが分かる。

 だって。不動ふどう繭理まゆりは二年前まで能世春木の配偶者だったのだから。

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