第8話 新宿区、喫茶店④
「なんだー鹿野ちゃん知らなかったの?」
間宮探偵が気の抜けたような声で言う。
「まあ、不田房さんや宍戸とは一〇も違うから仕方ないといえば仕方ないか……」
「え、そんな有名な話なんですか?」
だが、
「大学時代からの付き合いじゃったんですか? 不動繭理さんと、能世春木って……」
「そう。同期の、同い年でね。元傘牧場のメンバーや能世春木と個人的に交流がある人間は口を揃えて『似合いのふたりだった』『なんで結婚から十五年近く経ったタイミングで別れたのかよく分からない』って」
紫煙を吹き出しながら間宮探偵が応じる。鹿野にはどうにも──理解し難い話だった。学生時代。不田房がまだ相棒ではなく、大学の『演劇講座』の講師だった頃。不田房の指導の元、鹿野を含む学生たちは一年がかりでひとつの舞台を作り上げた。そういう授業を受けていた。その際、長期間同じ場所で顔を合わせ、同じ目的のために力を合わせ知力体力をこれ以上もないほど使う、というどこか吊り橋効果にも似た理由で、恋に落ちるカップルを何組も目にした。指導者である不田房に思いを寄せる生徒もいた。「一〇も年下の学生と恋愛するはずないでしょ」と不田房は至ってクールだったし、鹿野自身不田房をそういった、異性として見たことは一度もない。演出家と演出助手という相棒同士になった今も、その関係は変わらない。だから。
「傘牧場……に、能世春木と、不動繭理さんと、それに、」
「
宍戸が口を挟む。そうだ。能世と不動、もしくは能世と灘、というカップルが存在しただけならば別に何も不穏ではない。能世を挟んで、女と、男がいた。それが劇団傘牧場という集団なのだ。
「めちゃくちゃ修羅場になりません? それ……」
「って、思うでしょ。それがねえ」
新しい煙草に火を点け、間宮探偵は飄々とした口調で続ける。
「証言を集めてみるとね、どうも能世春木って男はうまくやってたみたいで」
「……うまく?」
「学生時代の話だから良く覚えてない──って人が多かったけど、能世と不動が交際していると認識していた者、能世と灘が交際していたと認識していた者、それに、能世はあくまで座長であり、誰とも特別な関係ではなかった、と言い切る者の三通りに別れるわけ」
「は」
なんだそれは。大した役者じゃないか。いや皮肉や嫌味ではなく、本当に、心から鹿野はそう思った。
能世春木は、不動と灘、両方の交際相手と、更に劇団員の前で理想の『能世春木』を演じ抜いた。そうして大学を卒業後不動と結婚し、……それから?
「灘さんは……どういう立場で……?」
「だから、恋人」
眉根を寄せる鹿野の問いに、間宮探偵はあっさりと応じる。鞄の中から新たな封筒を取り出し、壁の花こと響野に手渡す。
スマートフォンで撮影した写真を現像した、そんな画質の写真が数枚入っていた。どれも能世春木とあの美貌の男──灘一喜が笑みを浮かべて写っているものばかりで、
「あ」
気付いてしまう。鹿野の肩越しに写真を見下ろしていた宍戸も「んん」と変な声を出している。
灘の左手、薬指。
澄んだグリーンの、翡翠の、指輪。
「宍戸さん、これって、あの」
「ああ、俺も見た。あの手が嵌めてる指輪だ」
「鹿野ちゃんって見える人なんだっけ?」
間宮探偵の問いに、鹿野はこくりと首を縦に振る。
「宍戸も?」
「俺は見えない。基本的に見えないはずなんだが、今回は何やら例外が発生している」
「鹿野ちゃんに見えてるものが、宍戸にも見えるっていう、そういう話だよね?」
ああ、と宍戸が短く応じる。間宮探偵は長い指で自身の顎をするりと撫でて、
「元傘牧場のメンバーで、台湾公演に参加した連中から集めた証言によると」
灘一喜の左手の薬指で輝く翡翠の指輪は、能世春木が台湾現地で購入し、灘に贈ったものなのだという。
幾つかの疑問。
素人の鹿野の目にもそうと分かるほどに、灘一喜が身に着けている翡翠の指輪は美しいものだ。良くある着色済みの石ではない、天然の美しさを放つ、お値段もそれなりに張るはずの代物。
そんな指輪を能世が灘に贈ったということを、交際相手であった不動繭理は知っていたのだろうか? 不動もまた、別のアクセサリーやそれに類するものを贈られていたのだろうか?
それから、指輪の位置。左手の薬指。
鹿野と宍戸が見た手とは違う。あの手は、左手の中指に指輪を嵌めていた。
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