第9話 都内、電車内、終電間近
「……帰るか」
宍戸が唸った。
「はい」
鹿野は応じた。
宍戸とふたり新宿駅まで歩き、それぞれ別の電車に乗って帰路に着いた。明日からはまた稽古──いや違う。
(書棚、本、ダブルベッド、サイドテーブル、花瓶、水が入ったペットボトル──)
終電に近い電車の中、PDFファイルとしてスマートフォンに入れてある今回の戯曲を確認しながら鹿野は大道具及び小道具のチェックをする。これもまた劇場の小ささ、楽屋の狭さ、舞台上の渋滞に関連してくるのだが、本番が始まってしまうと演出助手鹿野素直の仕事はほぼなくなってしまう。何もできなくなる、という方が正確か。稽古中は出演者が小道具を持つのを忘れて舞台を模したスペースに立った際、流れを止めないよう傍からそっと差し出す、といったこともできたのだが、本番でそんなことを行ったらそれこそ鹿野自身の手で物語を一時停止することになる。それだけは避けたい。避けるために、舞台上に置かれる小道具と、狭い舞台袖にスタンバイさせる小道具たちを頭にきちんと叩き込んで、毎公演ごとに誰より正確に配置できるようにしなくてはならない。
(書棚……ダブルベッド……でかい装置が多いな……)
今回の舞台に書き割りはない。床の底上げも行っていない。だから書き割りが倒れて、床が割れて、俳優が怪我をするということは──たぶんない。
たぶん。
イッセンマンシアターで起きた事故の原因は未だ究明されていない。不田房たちは各地への公演に出発しており、現場となったイッセンマンシアターの関係者と、それに警察が入って状況を確認していると宍戸から聞いた。
原因が分からない事故は、自分たちの公演でも発生する恐れがある。
不田房なら、「怖がりすぎだよ」と笑うだろうか。笑うだろう。きっと。不田房が怖がらなさすぎなのだ。だから鹿野が代わりに怖がるのだ。そうしなければ、誰が不田房を得体の知れない脅威から守ってやれるというのだ。……守って?
(いやいや、守るも何も)
今は傍にいないのだった。忘れていた。あんな風に能世春木を紹介されて、嫌なものを見せられて、鹿野が立腹して、距離を取って。それで今だ。あれがなければ、鹿野も一緒に各地の公演に向かっていただろうか? ……向かっていたかもしれない。「あんな事故、別の劇場で起きるわけないじゃん」と笑う不田房を説き伏せて、今関わっている公演の小屋入りを見届けて、そのまま新幹線に乗って彼を追うぐらいはしただろう。
相棒なのだ。
溜息を吐く。そろそろ下車する駅だ。
スマートフォンをデニムの尻ポケットに押し込み、ふと顔を上げた。鹿野は黒いマスクを装着している。にも関わらず、何やら良い匂いがしたのだ。
香水ではない。柔軟剤でもない。そういう人工的な匂いではなく、もっと何か、不思議な、花のような匂い──
(……うわ、綺麗)
匂いの主は、目の前にいた。鹿野が下車する駅のふたつ前。ちょうど目の前で開いたドアを通って、匂いの主はホームに去って行った。
女性だった。
女の子、と称しても良いかもしれない。若かった。
美しい横顔をしていた。スッと通った鼻筋、切長の目、長いまつ毛の上で星のような青白い輝きが揺れていた。
ホームに立つ女性に、瞬間見惚れていた。
「──────」
「……?」
女性が不意にこちらを振り返る。目の前でドアが閉まる。
形の良い薄いくちびるが静かに動いて、鹿野に、何かを伝えようとした。
鹿野には彼女の言葉が、届かなかった。
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