第8話 都内、鹿野迷宮邸
終電ギリギリのタイミングで、新幹線は東京駅に滑り込んだ。共演者、スタッフへの挨拶もそこそこに不田房は電車に飛び乗る。新幹線の中から、既に連絡は入れてあった。あとはふたりが応じてくれるかどうかだけだが、それについては神のみぞ知る、といったところだ。
不田房栄治は、
終電と終バスを乗り継ぎ、最終手段のタクシーも使って鹿野素直の実家・素直の実父である迷宮が暮らす一軒家に辿り着いた。迷宮とは面識がある。こんな時間に家を訪ねて入れてもらえるのかどうかは賭けだったが。
チャイムを押すために手を上げて、その前にスマートフォンに何か連絡が入っていないかとデニムの尻ポケットに上げた手を突っ込む。──と、その瞬間。
「いなげなあんちゃん、ほんまに来よった」
呆れ声。
「お父さん!」
「あんたの父親になった覚えはないと何回言うたら……素直はもう寝とるけえ、上がりんさい」
黒縁の丸眼鏡に蓬髪を頭のてっぺんに近い場所でお団子にした壮年男性──部屋着姿の鹿野迷宮が声と同じく呆れ顔で不田房を招く。
「すみませんマジでこんな時間に」
「ほうじゃの。非常識極まりない」
「マジでほんとに非常識ですみません。この件が済んだら腹を切ります」
「流行っとるんか? ──自死」
軽口が良くない方向に作用した。暗い廊下を先導する迷宮の声が低くなる。不田房は鋭く息を呑み、「いえ」と短く応じた。
「……流行ってません」
「ほんなら、適当なこと言うな」
「……ごめんなさい」
鹿野素直の実家、鹿野迷宮邸を訪れるのは初めてではない。家族ぐるみの付き合いと称しても間違いではない交流をしてはいた。通されたのは見慣れたリビング。ソファの上では迷宮の愛犬、ラブラドールレトリーバーのチョッパーがすやすやと寝息をたてている。
そうして、ソファの傍らに置かれたひとり掛けの座椅子には。
「よう不田房。ずいぶん掛かったな」
「宍戸さん」
舞台監督、
ソファでチョッパーが眠っているのを気にしてか、宍戸は煙草を吸っていない。いつもきっちりと撫で付けられている黒髪はいかにも就寝前といった雰囲気で崩れており、更に服装もこの格好で外出はしないだろうな、といった風のジャージ姿だ。
「二時間待ったぞ」
「ああ……臨時停車が何回もあって……」
声が震える。
「鹿野は待ってられんつってもう寝た。終電間に合ったのか?」
「いや微妙……途中で降りてバス乗って……バスも半端なところだったからタクシー……」
視界が歪む。
立っていられない。
ほとんど倒れるようにして、その場に膝を付いた。
「ごめん」
絞り出すように呟いた。「ああ?」と宍戸が身を乗り出して、顔を覗き込んでくる。
「ごめん、ほんと、俺だめだ」
「何……?」
別に舞台上で事故が起きても良かった。それが誰の責任でも構わなかった。実際大阪で、劇場コスモドロップで頭上にある金属製の巨大な棒が落ちてきた時、「なるほど」とどこか冷静だった。次は俺の番か。そう思っただけだった。能世と同じように怪我をして座組から離脱することになるか、打ちどころが悪ければ死ぬか。どうなったっていいと思っていた。
思っていた。間違っていた。
伏せて、と戯曲にない言葉を叫んだ瞬間、脳裏を過ぎったのは鹿野素直と宍戸クサリの顔だった。
あのふたりに看取られずに死ぬのか? もう大人なのに、仲直りできないまま、「いやな思いをさせてごめん」のひとことも言えずに、特に思い入れのない座組でくたばるのか?
(俺、めっちゃ嫌なやつかもしれん)
棒の直撃は免れた。舞台には文字通りの穴が空いた。パニックに陥る観客たちをキャスト・スタッフ総動員で落ち着かせ、退席させながらも不田房の心は冷えていた。
死ぬのは今じゃない。
「宍戸さん俺!」
「うるせ。何時だと思ってんだ?」
口の端に小さく笑みを浮かべながら宍戸が立ち上がる。
「迷宮さん、俺も寝ます。部屋借りていいですか?」
「ああ。客間に布団があるけえ、使いんさい」
「お世話かけます」
家主に頭を下げた宍戸が、座り込んだままの不田房を振り返って言った。
「先に謝るべき相手がいるだろうが。優先順位間違えるな」
あと、と先ほどの皮肉っぽい笑みではない、どこか呆れの色が滲む表情で宍戸は続けた。
「おっさんの泣き顔で絆されるような仲じゃねえだろ、俺ら」
「はは……」
死ななくて良かった。無事に東京に戻ってこれて良かった。大阪の観客には本当に申し訳ないことをしてしまったけれど。
頬がぐしょぐしょに濡れている。宍戸が客間に消えて行く。鹿野迷宮が「不田房栄治」と呼んだ。
「風呂入って、寝ろ。続きは朝でええじゃろ」
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