第2話 都内、鹿野迷宮邸③

 鹿野素直がコーヒーを淹れ、三人は丸テーブルからテレビの前に置かれたローテーブルの方へと移動した。ソファで惰眠を貪っていたラブラドール・レトリーバーのチョッパーが身を起こし、尻尾をブンブンと振って人間たちを歓迎する。

 ソファには鹿野とチョッパーが、座椅子には宍戸が、そして不田房は床に正座をした。


「大阪、災難でしたね」


 前振りは必要ない。鹿野が口火を切った。

 不田房が首を縦に振る。


「さすがにね。想像もしてなかった」

「書き割りの代わりに布を吊り下げるという案は、誰が……?」

「鹿野も知ってるだろ、コオロギ透夏とうか。宍戸さんも知ってるよね?」


 ふたりが頷くのを確認した不田房は、


「東京公演の事故の関係で俺も他のキャストやスタッフも全員警察に事情聞かれて、でも中でも透夏くんは長く取調室にいてね。それからどうにかこうにか大阪に移動して……すぐ透夏くんと、大道具の薄原すすきはらくんは抜けたんだ。で、代わりに王城おうじょうくんっていう舞監助手の子が繰り上げで舞監を担当することになって」

「布を吊るすという案は──王城さんという新しい舞監の方が?」


 鹿野の問いに、不田房は首を横に振る。


「いや。透夏くんと薄原くんが最後に考えたものだ。最後に、っていうのは……」

「大阪で事故が発生してから、コオロギも薄原もすぐに東京に連れ戻されてたな。警視庁で取り調べを受けてたと聞いた」


 不田房の言葉を引き取るように、宍戸が呟く。鹿野は大きく両目を瞬かせて、


「事故なんですよね?」

「事故だよ」

「じゃあなんで、警察」

「事故に見えなかったからじゃないかな」

「不田房さん、どうしてそんな他人事風なんですか」


 空になったコーヒーカップをローテーブルの上に置き、鹿野が唸る。不田房は黙って眉を跳ね上げる。


「『底無活劇』。チケット即完の人気公演ですよ」

「鹿野」

「チケットの売れ行きとかはまあ、正直そこまで私は気にしていないというか。でもね不田房さん、チケット即完ってことはそれぐらい大勢のお客さんが待ってるってことじゃないですか」

「鹿野」

「不田房さん、いつもの不田房さんならそんな他人事の顔しないですよね? なんなですか? 稽古場代役アンダースタディだから、『底無活劇』が休演になっちゃっても構わないっていう考えなんですか?」

「鹿野、ねえ、落ち着いて」

「落ち着いていられますか!」


 愛犬を怯えさせないため、唸り声は低く抑えた。鹿野素直は腹を立てていた。今起きている事象全てに。そして目の前の──不田房栄治に。


「どこから説明すればいいんだろう」


 膝の上にコーヒーカップを抱えたまま、不田房は半ば茫然と呟いた。「」と口を挟んだのは宍戸クサリだ。


「知ってること全部話せよ。それから俺と鹿野も、今分かってる事情を開示する」

「……俺が先なの?」

「当たり前だろ」


 長い脚を組み直しながら、宍戸が鼻で笑った。


「始めたのはおまえだ。俺と鹿野を能世春木と対面させて──巻き込んだのも、おまえだ」


 瞬間、不田房は項垂れ──しかしすぐに、勢い良く顔を上げた。


「『底無活劇』というのは」


 いずれ伝えなければならないことだった。


「新作公演って触れ込みになってるけど、本当は違う。あれは、なんだ」


 宍戸と鹿野が視線を合わせる。訝しげに眉を寄せる鹿野。何かに気付いたかのように長いまつ毛を上下させる宍戸。


「当時は『底無活劇』ってタイトルじゃなかったと思う……でも戯曲自体は劇団員全員に配られたし、読み合わせもした。俺の手元にはもうないけど、捨てちゃったから」

「不田房さん本当になんでもかんでもすぐ捨てますね」


 先ほどまでの怒りの色とはまた違う、呆れの色が滲む声で鹿野が呟いた。そう。不田房栄治はモノに対する執着がない。人間関係に対しても同様だ。要らなくなったらすぐに手放してしまう。公演を終えた舞台の戯曲など、家に溜め込んでいても意味がない。千穐楽を終えた打ち上げ後の帰路で、駅のゴミ箱に捨てて帰ったことさえある。だから。


「傘牧場の解散公演……国内での解散公演をしたあと、台湾の公立劇場に招かれて、それが実質ほんとに最後になったんだけど……」

「それについては俺たちの方でも調べがついている」


 ぴ、と左手の人差し指を突き上げて宍戸が言った。


間宮まみやに調査を頼んだ」

「間宮……あーっ探偵の人でしょ!? あの人さぁ、あの人、なんか俺の……俺のに要らん入れ知恵を……」

「不田房、その話はあとでいいだろう。それより台湾公演の話だ」

「ええ……そんな……」


 間宮探偵が言っていた、不田房栄治の『妹』。鹿野としては『妹』の話にも突っ込んでいきたい気持ちはあったのだが、そんな風に話を広げてしまってはせっかくここに三人が顔を揃えた意味がなくなってしまう。

 今は、『底無活劇』。それに劇団傘牧場の台湾公演の記憶を優先する。


「台湾……台湾ね……もう一〇年以上も前の話だけど、いい公演だったと思うよ。食事も美味しかったし、現地のスタッフさんもみんな優しくて、感じが良くて……」

「本当に思い出話をするなよ。台湾では何を演ったんだ? それこそ、『底無活劇』か?」

「あ、いや、違う」


 宍戸の言葉に、不田房が背筋を伸ばして即答する。


「違うっていうか、能世は台湾公演のために『底無活劇』を書いたんだよな。今回上演されてる『底無活劇』は現代版としてかなり加筆修正されてるから、一〇年前のバージョンを知ってるやつらからは違う話じゃないか? とか言われてたけど……」

「上演しなかった、理由はなんですか」


 鹿野が尋ねる。不田房は眉を顰める。


「今回俺が代役として引き受けてる狂言回し──本来は能世が演じるべき役柄。あれ、最初に配られた戯曲では、灘が演じる予定だったんだ」


 なだ一喜いっき。もう死んだ男の名前が、また出てくる。

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