第三章 不動繭理

第1話 都内、鹿野迷宮邸②

 鹿野かの迷宮めいきゅう邸は、なんとも言い難い沈黙に包まれていた。


 平日である。家主である迷宮は勤務先の大学へと出かけて行った。午前8時に起床した鹿野かの素直すなおは朝風呂を使い、リビングでのんびりとメイクをした。外出の予定はない。遅れて起きてきた宍戸ししどクサリも朝風呂を借り、髭を剃り、髪を撫で付けて持ち込んだ部屋着から私服に着替えた。

 不田房ふたふさ栄治えいじは、正午を少し回った頃リビングに現れた。鹿野迷宮邸は二階建ての一軒家で、一階にリビング、迷宮の書斎兼仕事部屋兼寝室、時折帰省する娘・素直の部屋、更に客間とバスルーム、トイレがある。二階はすべて迷宮の資料置き場となっており、一階のスペースがすべて埋まっていたため、不田房栄治は二階で大量の書籍や紙の束に囲まれて眠りに就いた。


 宍戸と鹿野はリビングの丸テーブルを囲んでそれぞれ席に着き、自身のスマートフォンをいじったり、つけっぱなしのテレビを見たりしていた。『底無活劇』の名古屋・仙台公演がすべて中止になったという話は、ワイドショーなどでは話題になっていなかった。ただ、SNSは騒々しかった。

 なだ一喜いっきという今はもうこの世の者ではない人間の存在に触れている書き込みも多かった。二年前に自死した灘が能世に恨みを抱いて事故を起こしている──という何の根拠もない言いがかりのような書き込みが広く拡散されている。うんざりする。鹿野は灘一喜のことを知らない。彼がなぜ自死を選んだのかも知らない。だが、能世に恨みを抱いていたというのならもう少し早めに呪えば良かったのだ、とは思う。二年のブランクはいったい何なのだ。


「あの……おはよ」

「はい、おはようございます」

「飯食うか」


 不田房の腰が、見るからに引けている。昨晩。不田房から届いたLINEには『相談したいことがたくさんあるから迷宮さん家で合流したい 今夜中に行く』と書かれていた。迷宮さん家。人の実家を勝手に合流場所にする辺り相変わらずだと鹿野は少し呆れたし、不田房が自身の知る不田房であるということにほんのちょっとだけ安心もした。安心した自分を愚かしいとも思ったが。

 鹿野は自宅マンションから実家──鹿野迷宮邸へ。同じメッセージを受け取った宍戸はヘルプで入っていた現場の飲み会を途中で抜けて、電車とバスを乗り継いでやって来た。父・迷宮に事情を話すと「なんじゃあ相変わらずじゃの、あのいなげなあんちゃんは」と呆れてはいたが、特にそれ以上の事情を詮索されなかったので、宍戸と鹿野は不田房の到着をリビングで待った。サブスク配信が始まっていた映画を二本見終えても不田房が到着しなかったので、鹿野は先に就寝した。宍戸と迷宮は不田房の到着をきちんと待っていたというのだから、優しい。


「飯あるの」

「ある」


 宍戸が席を立ち、ラップをかけて電子レンジの中に置いてあったオムレツを温め、来客用の茶碗に米をよそってやっている。この家のリビングは基本的には迷宮ひとり、もしくは素直とふたりで食事をする前提で構成されているため、不田房が座る椅子はない。


「ここ座れ」

「あー宍戸さん……」

「おいチョッパー、テレビつまんねぇなあ」


 不田房に席を譲った宍戸が、ソファでごろごろしているチョッパーの方に行ってしまう。スマホを眺める鹿野と不田房が、自然、向かい合う格好になってしまう。

 箸を握った不田房がじっとこっちを見ている。鹿野は小さく息を吐く。


「ごはん」

「はい」

「食べないんですか」

「食べます」

「ケチャップとかほしいんですか?」

「いやいい、このままで……」


 何かを言いたいなら言えばいい。別に年功序列でもなんでもないが、不田房が先に口を開いてくれなくては、鹿野は応じることができない。


 大阪の劇場で起こった事故の話。名古屋・仙台の公演が全部中止になった話。それに。それから。宍戸の友人である探偵・間宮弁護士から連絡があった。「に相談されてさぁ、知り合いの情報屋紹介しといたよ」。


 不田房の妹? 知り合いの情報屋? 謎の大きさとしては情報屋なのだが、いや、でも、──不田房には妹がいるのか? 知らなかった。知ろうともしなかった。


 そういえば不田房は、これまで一度も自分の家族の話をしたことがない。不田房栄治とて木の股から生まれてきたわけではないのだ。親だっているだろうし、妹がいても別に何もおかしくはない。

 だがそのおかしくはない存在の妹が、間宮探偵に相談を──した?


 いったい何が起きているんだ?


 もそもそと飯を食い終えた不田房が、「皿洗うね……」と呟いてキッチンに消えて行く。鹿野は大きく息を吐く。

 問題の公演『底無活劇』を主催している株式会社ジアン。能世春木をはじめとする有名俳優、演出家が多く所属している芸能プロダクションだ。おもに不田房とばかり仕事をしている、もしくは不田房経由で知り合った俳優やスタッフと同じ現場に入ることが多い鹿野には、能世春木本体と同じぐらい縁のない存在、それが株式会社ジアンだ。


「皿を洗い終えました……」


 不田房がキッチンから戻ってくる。「おう」「はい」と宍戸と鹿野の声が重なった。


「あのー……いや急に集合とか言って申し訳ないというか……」

「それは父さんに言うてください」

「帰ってきたらちゃんと謝る」

「いや迷宮さん戻ってくるまで待つのか? 外出た方が良くないか?」


 宍戸が呆れ声を上げているが、とはいえ三人とも鹿野迷宮邸という安全地帯を出るつもりはない。

 そう。ここは安全なのだ。演劇関係者に一切知られていない場所だから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る