第三章 不動繭理
第1話 都内、鹿野迷宮邸②
平日である。家主である迷宮は勤務先の大学へと出かけて行った。午前8時に起床した
宍戸と鹿野はリビングの丸テーブルを囲んでそれぞれ席に着き、自身のスマートフォンをいじったり、つけっぱなしのテレビを見たりしていた。『底無活劇』の名古屋・仙台公演がすべて中止になったという話は、ワイドショーなどでは話題になっていなかった。ただ、SNSは騒々しかった。
「あの……おはよ」
「はい、おはようございます」
「飯食うか」
不田房の腰が、見るからに引けている。昨晩。不田房から届いたLINEには『相談したいことがたくさんあるから迷宮さん家で合流したい 今夜中に行く』と書かれていた。迷宮さん家。人の実家を勝手に合流場所にする辺り相変わらずだと鹿野は少し呆れたし、不田房が自身の知る不田房であるということにほんのちょっとだけ安心もした。安心した自分を愚かしいとも思ったが。
鹿野は自宅マンションから実家──鹿野迷宮邸へ。同じメッセージを受け取った宍戸はヘルプで入っていた現場の飲み会を途中で抜けて、電車とバスを乗り継いでやって来た。父・迷宮に事情を話すと「なんじゃあ相変わらずじゃの、あのいなげなあんちゃんは」と呆れてはいたが、特にそれ以上の事情を詮索されなかったので、宍戸と鹿野は不田房の到着をリビングで待った。サブスク配信が始まっていた映画を二本見終えても不田房が到着しなかったので、鹿野は先に就寝した。宍戸と迷宮は不田房の到着をきちんと待っていたというのだから、優しい。
「飯あるの」
「ある」
宍戸が席を立ち、ラップをかけて電子レンジの中に置いてあったオムレツを温め、来客用の茶碗に米をよそってやっている。この家のリビングは基本的には迷宮ひとり、もしくは素直とふたりで食事をする前提で構成されているため、不田房が座る椅子はない。
「ここ座れ」
「あー宍戸さん……」
「おいチョッパー、テレビつまんねぇなあ」
不田房に席を譲った宍戸が、ソファでごろごろしているチョッパーの方に行ってしまう。スマホを眺める鹿野と不田房が、自然、向かい合う格好になってしまう。
箸を握った不田房がじっとこっちを見ている。鹿野は小さく息を吐く。
「ごはん」
「はい」
「食べないんですか」
「食べます」
「ケチャップとかほしいんですか?」
「いやいい、このままで……」
何かを言いたいなら言えばいい。別に年功序列でもなんでもないが、不田房が先に口を開いてくれなくては、鹿野は応じることができない。
大阪の劇場で起こった事故の話。名古屋・仙台の公演が全部中止になった話。それに。それから。宍戸の友人である探偵・間宮弁護士から連絡があった。「不田房の妹さんに相談されてさぁ、知り合いの情報屋紹介しといたよ」。
不田房の妹? 知り合いの情報屋? 謎の大きさとしては情報屋なのだが、いや、でも、──不田房には妹がいるのか? 知らなかった。知ろうともしなかった。
そういえば不田房は、これまで一度も自分の家族の話をしたことがない。不田房栄治とて木の股から生まれてきたわけではないのだ。親だっているだろうし、妹がいても別に何もおかしくはない。
だがそのおかしくはない存在の妹が、間宮探偵に相談を──した?
いったい何が起きているんだ?
もそもそと飯を食い終えた不田房が、「皿洗うね……」と呟いてキッチンに消えて行く。鹿野は大きく息を吐く。
問題の公演『底無活劇』を主催している株式会社ジアン。能世春木をはじめとする有名俳優、演出家が多く所属している芸能プロダクションだ。おもに不田房とばかり仕事をしている、もしくは不田房経由で知り合った俳優やスタッフと同じ現場に入ることが多い鹿野には、能世春木本体と同じぐらい縁のない存在、それが株式会社ジアンだ。
「皿を洗い終えました……」
不田房がキッチンから戻ってくる。「おう」「はい」と宍戸と鹿野の声が重なった。
「あのー……いや急に集合とか言って申し訳ないというか……」
「それは父さんに言うてください」
「帰ってきたらちゃんと謝る」
「いや迷宮さん戻ってくるまで待つのか? 外出た方が良くないか?」
宍戸が呆れ声を上げているが、とはいえ三人とも鹿野迷宮邸という安全地帯を出るつもりはない。
そう。ここは安全なのだ。演劇関係者に一切知られていない場所だから。
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