第3話 都内、鹿野迷宮邸④

 能世のぜ春木はるきは、最後の公演でなだ一喜いっきに花を持たせようとした。そのために書かれた戯曲が『底無活劇』だった。

 だが、灘一喜はいつもの控えめな微笑を浮かべて、『底無活劇』への出演を断った。


「いやだな、能世、俺のことなんだと思ってるの? 俺は好きで稽古場代役アンダースタディをやってるのにさぁ」


 美しい顔をした男だった。不田房には学生時代の記憶しか残っていないけれど、細面で、綺麗に通った鼻筋、くっきりとした二重まぶたの奥の瞳は灰褐色で、不田房などよりもよほど舞台映えがするいい顔立ちをした男だった。

 背も高く、何を着ても似合った。スタイルが良かった。稽古で忙しい役者たちの代わりに、衣装係のマネキンを頻繁に引き受けていた。スーツも、ドレスも、すべてが灘のために存在しているかのようだった。

 化粧映えもした。いつだったか、もう詳しいことは覚えていないけれど、灘が異性装で稽古場に立ったことがあった。あの時生唾を飲み込んだのは、不田房だけではないだろう。そうしてその場にいる全員が噛み締めたのだ。灘一喜は能世春木の男である。灘は能世のことしか愛していない。


 能世が他の人間に心を移したとしても、灘の愛情は変わらない。


 劇団傘牧場が解散して、不田房栄治はひとり演出家として、劇作家として活動するようになって、大学で教鞭を取って、そこで鹿野素直という学生と知り合って、鹿野を相棒──演出助手として側に置いて一緒に仕事をする日々が始まって、それと前後して舞台監督宍戸クサリと出会って、以前は弁護士だったという風変わりな過去を持つ宍戸もまた不田房の大切な右腕として共に舞台に関わるようになって──そんな目まぐるしい日々の中でも、不田房は、不田房栄治は、能世春木と灘一喜のことを忘れはしなかった。大学の同期にも、鹿野にも、宍戸にも呆れられるほどに記憶力がない、必要のないことはどんどん忘れていく脳みその中に、能世と灘は不気味なほどしっかりと棲み付いていた。


 劇団傘牧場が解散して以降、今回の『底無活劇』の稽古場代役アンダースタディとしてオファーを受けるまで、一〇年、或いはそれ以上、不田房は能世の舞台を見に行かなかった。能世が脚本を手がけているテレビドラマや映画を見てしまうことはあったけれど、舞台は、舞台だけは。


 不田房栄治は能世春木の才能に嫉妬している。

 認めるのには時間がかかった。一〇年かかった。だが、認めてしまえば呆気なかった。


 能世春木は天才だ。素晴らしい戯曲作家で、演出家で、俳優だ。


(……あの程度で?)


 能世のスケジュールは、五年先までびっしりと埋まっているらしい。演劇、テレビドラマ、映画、それにどこかの劇場の芸術監督も引き受けていると聞いた。それに加えて自身の関わる作品の宣伝のためのテレビ出演。能世は忙しい。本当に人気者だ。


(あの程度の作品で? あんなもんでいいのか?)


 能世春木は天才だ。関わる作品の規模も劇場の大きさも、不田房栄治が一朝一夕で追い付けるものではない。

 それなのに。なぜだろう、思ってしまうのだ。「あの程度で?」「世の中はあの程度の作品を求めているのか?」「俺ならもっとできる、もっとやれる」「能世なんか」「能世の作品のどこが、そこまで」。


「私能世さんの戯曲ホンあんま好きじゃないんですよねぇ」


 不田房に、最初にそう言ったのは鹿野素直だった。彼女が大学を卒業してすぐの頃だった。能世春木は、公演の度に劇団傘牧場の関係者に招待券を送り付けてくる。もちろん今回の『底無活劇』のようにチケット即完、関係者席を出している余裕がまったくない場合は話が変わってくるが、それでも年に数回、不田房は能世が所属する株式会社ジアンからの封筒を受け取っていた。

 稽古場の掃除をしている時だった、と思う。リノリウムの床の雑巾掛けを終え、キャスト、スタッフの到着を待っている際、不田房が鹿野に尋ねたのだ。


「鹿野、来月の二週目の日曜日暇?」

「は?」

「渋谷のさ、フロリシアター。あそこで今度能世春木の新作が上演されるんだけど、招待券もらったんだけど俺行かないから……」

「あー」


 鼻の上に皺を寄せて、学生生活を終えたばかりの鹿野は笑った。そして言った。「私能世さんの戯曲ホンあんま好きじゃないんですよねぇ」。

 ちょうどその頃、能世が脚本を手がけたテレビドラマが支持を集めていた。元劇団傘牧場のメンバーも多く出演し、能世自身もカメオ出演という名目で度々現場に足を運んでいた──と聞く。映画化も、決まっていたのではなかったか。


「え、好きじゃないの? マジ? 意外」

「そうですか? え、いや、違いますよ。能世さんが流行ってるから苦手とかそういうんじゃのうて、なんか……合わん……って不田房さん招待券貰うような仲なのに失礼ですよね。すみません」

「いやいいよいいよいいよ。寧ろもっと言ってよ能世のダメなとこ」

「ええ……?」


 戸惑ったように笑う鹿野に、その瞬間不田房は救われていたのだ。救済の手段としてはあまりにいびつだったし、子どもじみていた。わかっている。それでも、誰もが支持する能世を。当代一の劇作家と名高い能世春木を。俺の演出助手は好きではない、と言う!


「──不田房?」


 宍戸の声がした。過去に意識を飛ばしすぎていた。

 不田房は慌てて顔を上げ、


「とにかくさ」


 と自分でも無理のある声音で言葉を重ねる。


「『底無活劇』……元のタイトルなんだったか忘れたけど、とにかく台湾で公演する予定で、灘も出る予定だったのが稽古が始まる直前で灘が出ないって言い出して色々変更する羽目になっちゃって。……探偵の間宮さんって、俺らが台湾で何上演したかも調べちゃってたりする?」

「しない」


 宍戸の即答に不田房は軽く頷き、


「結局ね、あの時は全然別の……傘牧場としても何回か上演したことがあるオムニバス作品を再演することになったんだよね。そこそこ人気がある作品だったし、俺も含めて傘牧場メンバーもそこまでゴリゴリに稽古しなくてもだいたい台詞が入ってたから、あとは台湾の劇場で調整するだけ、みたいな感じで現地入りして。うん。だからそうだな。あれは本当に、卒業旅行だったっていうか……」

「灘さん」


 チョッパーの頭を撫でながら、鹿野が呟いた。


「どうして出演を拒否したんでしょうね?」

「んー? 拒否っていうほど大仰な感じじゃなかったと思う……記憶曖昧だけど……」

「拒否は拒否じゃないんですか? だって灘さんは……能世さんと交際していたわけで。その能世さんが自分のためにわざわざ戯曲を書いてくれたら、嬉しいとかないんですかね?」

「鹿野、不田房が『鹿野のために』って戯曲書いて持ってきたら嬉しいか?」


 宍戸の問いかけに、「超いやです」と鹿野は即答する。


「ということなんじゃねえの? 俺も分からんが」

「ええ〜……? 灘さんと私は違くないですか? だって灘さんは稽古場代役アンダースタディで演技だってできるし、写真見る限りかなりのイケメンだし、それに較べて私は演出助手以外は特に何もできないただのなんというか……人間……?」

「鹿野は鹿野で魅力的でしょ! 卑下しない!」

「うるさっ」


 思わず声を張り上げた不田房を、鹿野がいかにも嫌そうにひらひらと手を振って拒む。だが、口元は緩んでいる。

 部屋の空気自体も、昨日よりはだいぶ良い。


「ところで──ですけど」


 ソファを飛び降りたチョッパーがどこかへと走り去ってしまう。その後ろ姿を眺めながら、鹿野は続けた。


「灘さん、灘一喜さんは間違いなく二年前に亡くなられてるんですよね?」

「そうみたい」

「……私が見た手も、灘さんってことで間違いないんかな」

「俺は……いや、そうか、その件があるよね」


 くしゃりと髪をかき回し、不田房は呟く。

 そうだ。まだ和気藹々とした空気には、戻れない。


「鹿野、宍戸さんも。ちょっと前の公演で、劇場自体がヤバかったことあったじゃん。霊能者の人とか呼んで騒ぎになった」

「シアター・ルチアの件か」


 宍戸が呟く。渋谷区にある劇場、シアター・ルチア。その奥底に封じられ、踏み付けられた神社が存在し、数々の怪奇現象が発生するという事件に不田房、鹿野、宍戸の三人は巻き込まれていた。

 霊能者自身は、宍戸クサリの知り合いだったはずだが、


「俺あの時霊能者の人に名刺もらってて。で能世のこと連れて行ったんだよね」

市岡いちおかのところに?」


 宍戸が眼鏡の奥の瞳を大きく見開く。不田房は頷く。


「そうしたらさ、なんていうか……って言われて」

「市岡が? 違うって?」

「何が違ったんでしょう」


 宍戸がローテーブルの上に置いていたスマートフォンに手を伸ばす。市岡という名の霊能者に連絡を取るつもりなのかもしれない。鹿野は小首を傾げ、不田房は、


「……市岡さんが見るモノとは違うモノがいるって、言われたんだよね」

「あ!」


 宍戸の手からスマートフォンが滑り落ちる。グレーの絨毯の上に落ちたスマートフォンの液晶画面が、目まぐるしく動き回る。

 ルーレットのようだ。様々なアプリ、写真フォルダなどを次々に映し出す液晶画面が、やがてひとつの画面で停止する。

 株式会社ジアンに所属する俳優を紹介するページだ。


「……え?」


 スマートフォンを拾おうとする宍戸の指の隙間から見えた顔に、鹿野は思わず声を上げていた。


「この女の人……」

「ん?」


 スッと通った鼻筋、切長の目、長いまつ毛の上で星のような輝きが揺れている──静止画像なのに。


「ああ、この娘?」


 不田房が気の抜けた声を上げる。



 鹿野素直は、終電間近の電車の中で、この女性に遭遇している。

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