第2話 大阪、ビジネスホテル
書き割り代わりの布を吊るために使われている巨大な金属製の棒。当たったら死ぬと思った。何もかもがスローモーションで記憶されている。
「伏せて!!」
そう、不田房は叫んだ。台詞ではない。本心からの叫びだった。不田房もまた、舞台上から客席に飛び降りた。布を巻き込みながら落ちてきた棒はステージに文字通り穴を開け、しかし幸いにも客席方面に転がってくることはなく、舞台の奥へと消えて行った。
観客席は、阿鼻叫喚の大騒ぎになった。
「出演者、全員出て!」
不田房の声に応じるように、衣裳を纏ったままの出演者たちが客席に、ロビーに姿を現す。観客ひとりひとりに声をかけ、宥め、落ち着かせ、それから警察の到着を待った。事情聴取は出演者・スタッフのみに対して行われ、客席に座っていた大勢の人たちには帰路に着いてもらうことができた。良かった、と不田房は思った。良くはない点も、もちろんあるが。
「コオロギさんと
「うん……」
翌日の公演も、中止となった。大阪では残り三回。そのうちの一回が消えた。最後の二回も、無事に上演できるかどうかは定かではない。
いや、大阪だけではない。名古屋も、仙台も、北海道も、中止になるかもしれない。チケットの払い戻しはどうなるのだろう。それに劇場コスモドロップ舞台上にぶち開けられた巨大な穴。あれの修繕費用は、いったい誰が払うのだろう。
「ちょっと不田房、聞いてます?」
「聞いてる、聞いてる」
不田房は、大阪公演のために制作が借りたホテルの一室にいた。出演者もスタッフも皆、同じホテルの別の部屋に泊まっている。──舞台監督のコオロギ
シングルベッドの端に腰をかける不田房を、鏡台前に置かれた椅子に腰を下ろした
「どうとも思わないんですか?」
「どうとも、とは」
「私はコオロギさんや薄原さんが、舞台に対して何かをしたとは思えない」
「そんなの俺だってそうだよ」
「だったら」
だったら、と桔梗が声を震わせる。気持ちは分かる。座長であり戯曲作家・演出家である能世春木が抜け、出演者やスタッフの精神的支柱となっていたのは不田房ではなくコオロギ・薄原のふたりだった。そのふたりまでいなくなってしまった。絶対に罪を犯してなんかいないはずなのに、ほとんど無理やり、連れ去られるように。
大阪の残り二回。名古屋で五回。仙台で三回。北海道で五回。
無事に乗り切れる気がしない。桔梗はそう言いたいのだろう。理解できる。不田房もまた同じ気持ちだからだ。
「……不田房、怪我しなくて良かったですね」
「うん。能世の件があったから、もし何かがあったら観客席に飛び降りようって決めてたんだ」
応えに、桔梗が驚いたように両目を見開く。
「ちゃんと考えてたんですね……?」
「俺のことなんだと思ってんの。あのね、誤解しないでほしいんだけど、俺は透夏くんのことも薄原くんのことも疑ってないよ。あのふたりがあんな事故起こすなんて有り得ない。だから余計に何か起こるかもって思ってはいたんだよ」
「だから余計に?」
デニムジャケットのポケットから煙草の箱を取り出した桔梗が、「禁煙かこの部屋」と舌打ちをする。この部屋だけではなくホテル全体が、それに劇場コスモドロップも全面禁煙である。
「そう。人間がやってないことなら、場所移動したところで事故は全然発生するでしょ」
「人間がやってない?」
「そう」
そう、と繰り返しながら、そういえば桔梗は能世の肩に白い手が乗っているという話を知らないのか、と不田房は内心言葉を繰る。アレを──アレを
鹿野は怖がっていた。
怖がっていたし、立腹していた。あんなものを見せた不田房栄治に対して。
もうだいぶ長らく顔を合わせていないし、連絡も取っていない。LINEを送ると既読は付くものの、返信は絶対に来ない。
鹿野とはもう、一緒に仕事をできないかもしれない、と少しだけ思う。
「本気で言ってんですか? ……何か怪異みたいなのが、舞台を襲ってるって?」
「うん」
「そんな、実際そうだとして何が原因で──」
舞台上ではウィッグを被って隠している黄金色の髪を大きく揺らして、桔梗が乾いた声を出す。
原因。
そうだ確かに。桔梗の言う通り、頻発する事故がこの世のものではない何者かの仕業であるとしたら、原因は、きっかけは、いったい何だ?
──瞬間。
鏡台のすぐ傍に置かれている内線電話機が音を立てた。
「うわっ! もしもし!」
「あら……」
驚いたように飛び上がった桔梗が、パッと受話器を上げてしまう。あららら、と不田房は髪をかき回し、眼鏡を外してシャツの裾でレンズを拭う。
「はい……はい……少しお待ちくださいね」
と受話器を片手で押さえた桔梗が、
「不田房って妹いるんですか?」
「え? 妹? ……いるが?」
だが、あまり他人には言っていない。目の前の桔梗清螺にだって、自身の家族について伝えたことは一度もない。
「フロントに来てるって……」
「えええ!? 嘘でしょ!? 嘘だよ絶対。ちょっと名前聞いてみて、下の名前だけでいいから」
「はあ……あの、すみません」
桔梗が何やら内線電話機の向こうの相手とやり取りする横顔を、不田房はボヤけた視界でぼんやりと眺める。
「不田房」
「へい」
「名前、ミレイさんで合ってますか」
「うああ……」
頭を抱える。
妹だ。本物だ。
どうやってこのホテルを探し当てたんだ?
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