第3話 大阪、ホテル最寄喫茶店

 桔梗ききょうとともに部屋を出て、エレベーターに乗って一階のフロントに向かう。


「アニキ」


 懐かしい──それでいて、できればこんな状況の時に聞きたくない声だった。

 砂川すなかわ美令みれい。不田房栄治の、十八歳年下の異父妹いもうとである。


「み、美令……なんで、ここが……」

「アニキ、SNSとかやらんの? 『底無活劇』のメンバーがどこに泊まっとるかなんて、検索すれば一発やで」

「こ、怖」

「……え、ほんとに不田房の妹なんですか?」


 黒いマスクを付け、眉を顰めた桔梗が囁く。鹿野が海外通販でまとめ買いをする際に一緒に買ってもらった灰色のマスクを付けた不田房は、力なく首を縦に振った。

 砂川美令。たしかまだ、大学生ではなかったか。


「今年で四回生」


 と、人差し指、中指、薬指、小指を不田房の胸元に突き付けながら白いマスク姿の美令が言い切る。そうか、もうそんな年になるのか。


 いつまでもフロントで立ち話をしているのもどうかという理由で、場所を移動した。幸いにもホテルの周りには幾つも喫茶店があった。どの店も全面禁煙ではあったが。

 不田房はブレンド、桔梗はカフェオレ、美令は紅茶を注文し、丸テーブルを囲んで顔を合わせた。180センチ超えの不田房に較べて、美令は150センチ少々と小柄だ。不田房の長身は、死んだ父親に似たのだ。実母は、美令と同じように小柄で華奢な体躯をしている。


「そんで──アニキ。なんでうちにも誰にも連絡せんかったん」

「いや……え? 連絡? って何の?」

「決まっとるやろ、代役で地方公演回るって話」

「ああね……」


 カフェオレに大量の砂糖を放り込む桔梗が、目を輝かせながら不田房と美令を交互に見詰めている。(勘弁してくれ)と内心唸る。不田房栄治は本当に、自分の生まれ育ちのことを誰にも語ることなく今まで生きてきたのだ。


「別に……美令かて別に演劇とか好きやないやろ」

「えーっ! 不田房が大阪弁!?」

「生まれは兵庫。でもどうでもええやろ今は」

「アニキの演劇には興味ないけど、うちも父さんも母さんも能世さんのドラマとか映画は見とるよ」

「ああそ、」


 それならそれで、映像で満足していてくれればいいじゃないか。ただでさえ能世春木が関係する舞台のチケットは取り難いのだ。どういった経緯で知り合ったかさえ思い出せない、限りなく他人に近い知り合いから「関係者席を押さえてほしい」という連絡が殺到するほどに。不田房はそういう頼み事を捌くのが苦手だから、図々しい連絡でパンクしそうなLINEアプリが入ったスマートフォンを鹿野素直に預けてすべて片付けてもらっていた。今。鹿野がここにいてくれたら。


(……いや)


 鹿野には家族のことを話していない。こんな形で異父妹の存在を告げるのは、不田房としても不本意だ。


煙草たぁばこ〜」

「不田房、ここ、禁煙」

「父さんが」


 桔梗と美令の声が重なる。一瞬視線を交わした女性ふたりは無言で発言権を譲り合い、


「『底無活劇』のサイト見て、アニキの名前があるでーって」

義父とうさん……ああそう……」

「それで、稽古場代役? ってよう分からんけど大阪にも来るんと違うかーって言うて。チケット、これ」


 と、ふくれっ面の美令が肩から提げていた鞄の中に手を突っ込む。

 異父妹の手の中には、『底無活劇』の明日の公演のチケットが握られている。


「一枚取るだけでも大変やったんよ? サイト先行、チケ屋の先行、それに能世さんのメールファンクラブ先行……」

「なにそれ? メールファンクラブ?」

「そういうんがあるんよ。アニキほんま相変わらず……どうやって生きてたん?」


 桔梗の視線が右頬に突き刺さるのが分かる。どうやって? そんな、どうもこうもない。

 不田房栄治は、普通に、静かに、戯曲作家として、演出家として、生きている。

 それを実の母親や彼女の再婚相手であり美令の実父である義父、そして異父妹いもうとの美令にいちいち伝える義務はない。


「でも、明日の公演もなくなるんやろ?」

「えっ」

「そうなの!?」


 桔梗が身を乗り出す。美令は一瞬驚いたように瞳を瞬かせ、


「って……『底無活劇』公式アカウントが……」


 と、スマートフォンを不田房と桔梗の前に差し出した。たしかにSNS上で、そして公式サイトにて大阪で行われる残り二公演の中止が発表されていた。

 桔梗が溜息を吐く。不田房も我知らず、大きく嘆息していた。

 こんな展開は望んでいない。だが、こうなることを予想していなかったわけでもない。

 舞台監督がいない。大道具担当者も。どんどん人が減っている。このまま公演を決行しても、チケット代に見合うだけの舞台を作り上げるのは不可能だろう。


「それで──おまえは、なにしに来たんや」

「おまえ? 妹に対しておまえはないやろ」

「そういうのええから。何か用事があったんやろ。暇やったら義父さんのとこに顔出せとか、そういう話か?」


 義父と実母、それに美令が暮らしているマンションに行くのは億劫だ。面倒臭いし、シンプルに厭だ。

 母親と顔を合わせたくない。

 しかし美令は、呆れたように肩を落とし、


「違うて。……なあ、今日このあと時間ある?」

「あるんやない? 知らんけど」

「それやったらさ、神戸行こうや。神戸にな、こういう訳わからん事故に詳しいの人がおるんやって!」

「それもSNS?」


 桔梗が尋ね、美令が大きく首を縦に振る。


「おまえ……知らんやつの言うこと、何でもかんでも鵜呑みにしたらあかんで……」


 唸りつつも、今日、少なくとも今日この日は不田房も桔梗も暇だった。明日の公演が無事に行われたとして、明後日は本来ならば大阪公演の千秋楽。十四時開演の公演を終えた後はキャスト・スタッフ総出で舞台を解体し、次の現場、名古屋への大移動を開始する予定だった。だがその名古屋での公演も、今後どうなるやら分かったものではない。


 神戸の占い師。


 それがいったいどういう人間なのかは分からないが、強制的に実家に連れ戻されるよりはマシだろう。


「鹿野、この辺にレンタカー屋さん……あっ……」


 口に出してみて、ものすごい虚無感に襲われた。

 鹿野かの素直すなおは今、傍らにいない。

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