第二章 能世春木

第1話 大阪、劇場コスモドロップ

 不田房ふたふさ栄治えいじは、ぼんやりと過ごしていた。


 東京・イッセンマンシアターで発生した事故から数日。演出家・出演者である能世のぜ春木はるきを除いたメンバーでどうにか『底無活劇』の最終日まで乗り切り、今、不田房を含めたメンバーは大阪に滞在している。

 大阪・劇場コスモドロップのキャパは東京・イッセンマンシアターの三分の二ほど。舞台も小さくなるし、客席も狭くなる。大阪公演を終えた後巡る名古屋や仙台の劇場もそれほど大きくはない。大千穐楽の会場となる北海道の劇場だけが、イッセンマンシアターと同じ規模だ。


 イッセンマンシアターで倒壊した書き割りは、証拠品として警察に押さえられている。何のための証拠品なのか、不田房には良く分からない。舞台監督のコオロギ透夏とうかと大道具担当の薄原すすきはらカンジは少ない時間の中で知恵を絞り合い、書き割りではなく、巨大な布を利用した新しい舞台装置を作り出した。能世春木が離脱した後の東京公演、そして大阪から始まるツアーでは、基本的に新しい舞台装置で公演に臨むことになる。


 特に緊張はしていない。


 もともとは役者だったのだ。戯曲を書き始めたのは大学を卒業してから。劇団傘牧場が消滅してからの話だ。不田房栄治のキャリアは俳優として始まっている。だからこういう急なセットの変更や、出演者の変更でいちいち動揺することはない。能世自身、今回の『底無活劇』では、メインの登場人物ではなく、狂言回しとしての役柄を引き受けていた。代役として舞台に立つ不田房も、同じように狂言回しとして客を笑わせるだけだ。


 ため息が出る。


 イッセンマンシアターに於けるセット倒壊。明確に、おかしい。

 誰もが気付いていた。何がおかしいのか詳しく説明しろと詰められたら言語化するのはなかなかに難しいのだが──


(透夏くんと、薄原くん)


 若手No. 1と名高い有能な舞台監督と、ありとあらゆる現場を駆け回る大道具担当者のホープが揃っている現場で、あんな風に舞台が壊れるはずがない。観客にだって、気付いている者はいるだろう。コオロギ透夏と薄原カンジは、その名前で、存在で、客を引っ張ることができるほどに人気のあるスタッフたちなのだ。


(……警察に、あれこれ聞かれてたな)


 事情聴取を受けていた。コオロギと薄原だけではなく出演者全員が関係者として事情を聞かれたが、特に舞台監督・大道具スタッフである彼らは長く拘束されていたように記憶している。あのふたりが悪意を持って舞台を破壊するなんてこと、あるはずがないのに。

 とはいえ警察サイドの気持ちが想像できないわけではない。起こるはずのない事故で大怪我を負った者がいるのだ。原因を究明するのが、警察の仕事だ。幸い、病院に担ぎ込まれた能世には意識もあり、大腿骨骨折以外の怪我も負っていない。ただ、あの足では当分舞台に立つことはできない。だから不田房が、今、大阪にいる。


 ため息を吐く。


「ちょっと、不田房!」

「うおい!」


 背中を強く叩かれた。振り返ると、共演者の女性俳優・桔梗ききょう清螺きよらが立っている。


「そろそろ開場ですが?」

「ああ……もうそんなか」

「ぼんやりして! 不田房がちゃんとしないと、みんな心配になっちゃうんですが?」

「あー……それは……いやそこまで俺責任持てないっていうか、ただの代役アンダースタディだしぃ……」

「ただの! 代役アンダースタディ!」


 桔梗は『底無活劇』のヒロイン的存在を担っている。舞台上では不田房との絡みはほとんどないが、旧知の仲ではある。年の頃は三〇代はじめ。長身に細面の顔、形の良い眉を寄せた険しい顔が不田房を睨み据えている。


代役アンダースタディを引き受けた時点で覚悟はしていなかったんですか? 能世さんにもしものことがあったら……」

「そうね、能世は座長だもんね。座長が抜けたらまあ……俺が座長代理……えっうそ……?」

「その通り! って毎日言われないと実感湧かないんですか!? さ、みんな待ってますよ。とっとと向こうに戻って、喝入れてください全員に!」


 喝を入れられたいのは俺だよ、と思いつつ、男性用楽屋のいちばん奥にある自身の鏡前に座っていた不田房は小さく笑う。手元に置いてあった缶コーヒーをひと息に飲み干す。


(本番前にコーヒーそんな飲んで……トイレ行きたくなっても知りませんよ?)


 鹿野かのだったら、そんな風に咎めるだろう。桔梗はもう、楽屋から出て行ってしまった。

 能世春木から稽古場代役アンダースタディとして『底無活劇』に参加してほしいという依頼を受けた際、


なだくんは?」


 と不田房は尋ねた。なだ一喜いっきが死んでしまっていたなんて、想像すらしてなかったのだ。

 能世は静かな口調で二年前に灘が自ら命を絶ったことを告げ、それ以来俳優・能世春木が参加する舞台を上演できていないこと、今回の新作『底無活劇』にはぜひ俳優・能世春木にも参加してほしいという要請を受けているということ、そしてそのためには稽古場代役アンダースタディが絶対に必要だということ──を淡々と語った。


「なんで俺なの」


 不田房と能世は、学生時代を過ごした街の一角にあるラーメン屋で顔を合わせていた。能世のような有名人と一対一で会話をするに当たり、その辺りの喫茶店やレストランを選ぶのはあまり得策とはいえない。メディアへの露出が多い能世のファンに、すぐに発見されてしまうからだ。その点、このラーメン屋は良い。不田房らが学生だった頃から今まで、ラーメン目当ての客しか来てない。今も、カウンター席に座る老若男女大勢の人々は皆ラーメンに集中していて、不田房にも、能世にもまったく興味を示していない。


「おまえが、俺と灘の関係にいちばん無関心だったからかな」


 意味はよく分からなかったが、大学時代の同期が色々と困っている、ということだけは理解した。それで引き受けた。所詮は稽古場代役だ。何も問題が起きなければ、不田房の出番は稽古場で終わり。板の上に立つのは能世春木である。


「え〜……能世さん不在の公演、東京から数えて今日でちょうど十五回目になりますがぁ」


 桔梗が要望した喝とはほど遠い気の抜けた声で、不田房は劇場ロビーに集った出演者、そしてスタッフたちに声を掛ける。


「まあ〜……なんとか……大阪はあと三回で次は名古屋で……仙台もあるけど……で最後は北海道……楽しみですね俺北海道行くの初めて……とりあえず誰も怪我とかしないようになんとか……やり遂げましょう、ね!」


 おー、とか、はい、とかそういった感じの返事を受け、不田房はペタペタとスリッパを鳴らして楽屋に向かう。


「不田房」

「なに、桔梗きっきょちゃん」

「……いや、別に」


 間もなく開場、三〇分後には開演。何か言いたいことがあるなら聞いておこうと思ったのだが、桔梗はスタスタと女性楽屋へと去って行ってしまった。


 舞台『底無活劇』の公演時間配分は、以下の通りである。


 ・第一部:七〇分

 ・休憩:二〇分

 ・第二部:九〇分


 東京・イッセンマンシアターに於ける事故は、第二部が始まって十五分ほどのタイミングで発生した。

 そして今日。

 大阪・劇場コスモドロップの舞台上で、第二部が始まって十五分、不田房栄治の頭上に吊られていた巨大な布が、金属製の支え棒と共に落ちてくる。


 今日の公演は、第二部が開幕してすぐに中止となった。

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