第5話 神戸市、中華街、南京町②
オフショルニットの女──或いは占い師──もしくは情報屋──は平坦な声で「冬や」と名乗った。
「ふゆ?」
「そう。うちの名前。冬さんでも冬ちゃんでもええよ、よろしくな」
女──冬が言葉を紡ぎ終えるのを待ち構えていたかのようなタイミングで、小部屋に人が入ってくる。一階の店頭に座っていた禿頭の男と同じぐらいの年頃の、壮年の女性だ。
「冬さん、お客さんがいらっしゃるんやからお茶ぐらい」
「はいはい。ってこれうちが悪いんか? なあ
「ごゆっくり」
冬が大きく嘆息する。
「も〜う……中国茶の淹れ方わかる人おる?」
「あっ私」
と、桔梗が挙手をする。
「横浜の方だけど結構中華街行くんで」
「助かるわ。お茶淹れて。
冬の許可を得た桔梗が、円卓の上に置かれた茶壺に手を掛ける。冬は両方の手をひらひらと揺らしながらソファの上でそっくり返り、天井をじっと見上げている。
「おにいさん、お名前は」
「は、俺」
「他におらんでしょ」
「ふ──不田房……」
「それ本名やないでしょ」
「!」
冬の言葉は間違っていない。不田房栄治は芸名だ。
だが不田房は、もう二〇年近い年月を『不田房栄治』として生きている。
本名を呼ばれる機会などないに等しい。
「……本名じゃないと占いできないですか」
「せやねぇ」
首を傾けた冬が、口の端を上げて笑う。捕食者の笑顔だ。彼女は愉しんでいる。
不田房が本名を捨てているということなど、とうに伝わっているのだろう。
「占い師やなくて情報屋やって、さっき自分で言うとったやないですか」
美令が何か言いたげな表情で見上げてくるのを無視して、不田房は口を開く。「あん?」と冬がいかにも不快げに眉を顰める。
「俺が持っとる──今回の『底無活劇』の情報やとか、能世の個人情報、他にもなんか必要なもんがあるんやったら全部お伝えします。それじゃあかんのですか」
「……言うなぁ、にいちゃん」
鋭く舌打ちをした冬が、茶杯を乱暴に掴んで中身をひと息に飲み干した。
「生意気やな。生意気な男は嫌いや」
「そらどうも」
「ちょっとアニキ! なんで喧嘩売んねん、冬さんやったら……!!」
慌てた様子で割って入る美令に、「気にせんでもええよ」と冬が微笑んだ。
「こん人は腹立つけど、ま、事件自体は面白そうや」
「面白……?」
冬が不田房に腹を立てているのと同じように、不田房もまた冬に対して「気に食わない」という感情を抱いている。そもそもおそらく、相性が合わない。
「千穐楽まで上演が叶わない舞台『底無活劇』。まず中心人物である能世春木が東京公演の折り返しにも至らないタイミングで早々に脱落。大阪公演も行ってはいたものの、舞台監督コオロギ
なぜそんなことを知っているのだ、この女は。
能世春木の離脱はともかく、コオロギ・薄原両名が東京に戻ったという話は舞台関係者の中でも一部の人間しか知らないはず。ましてやこの、占い師でも情報屋でもいいがとにかく胡散臭い人間の耳に話が入るなんてこと──
「起きてしまうんですなぁ、蛇の道は蛇。胡散臭い事件には、胡散臭い人間を」
茶杯を円卓の上に戻し、冬は満面の笑みを浮かべる。
「他にももっと色々知ってますよ。たとえばそうやな、
「不田房」
桔梗が手を伸ばし、不田房の腕を掴む。別に不田房は冬を殴ったりはしない。どちらかというと桔梗が、冬に恐怖心を抱いたというのが正確なところだ。
「灘……さん」
「お嬢ちゃん、知っとるんか?」
「美令?」
「いや、そのアニキはさ……こっちにも戻ってこないし、家族がアニキの仕事のことどう思ってるのかとかどうでもいい感じだったから言わなかったんだけど……灘さんって、なんていうか一部のオタクのあいだでは人気があったっていうか」
モニョモニョと言葉を重ねる美令の顔を、冬が楽しげに見詰めている。
灘が、一部の人間、オタクに人気があった? なんだそれは。初耳がすぎる。
「どういう意味だよ」
「そのまんまの意味。灘さんってアレやん、すごいイケメンやったし……」
「でも灘は、
「せやけど! 劇場行ったら会えたんやって! 能世さんの舞台のもぎりとか、あと前説とか、そういうの全部灘さんがやっとったから……うちもやけどそういう……灘さんがおるから頑張って能世さんの舞台のチケット取るみたいなファンもおって……」
「うふふ」
冬が笑う。
「理解が追いつかんという顔ですね、不田房栄治さん? あなたが思っとるよりも世界はずっと広いし、入り組んどる。わざわざ高いチケットを買って劇場に足を運ぶ理由なんてそれこそ十人十色。灘一喜さんも、その色のひとつやった」
灘。
灘一喜。
二年前に死んだ男。
そうだ、二年。もう二年も経っている。
「美令」
「は、はい」
吐き出した音は、自分でも驚くほどに冷えていた。
「灘が死んだんはもう二年も前の話やぞ。今更能世の舞台を見ても、何の見返りもあれへんやろ」
「せやから……今回は、アニキが稽古場代役やから、見てきたらええって父さんが……」
「ほんまにそれだけか?」
「幽霊やろ?」
耐えきれなくなった様子で、冬が口を開いた。可愛らしい顔立ちに笑みを浮かべ、ぐっと身を乗り出す。白い肌が剥き出しになる。
「灘一喜の、幽霊が出るって話やろ?」
なんなんだ、この女は。なぜここまで何もかも筒抜けなのだ。
鹿野、と呼びかけそうになって止める。冬の目の前で、鹿野素直をの名を口にしてはいけないような気がした。
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