第8話 薄原一暉、長台詞

 不動ふどう繭理まゆりに抱かれたことのない男はいなかった。それが劇団傘牧場という集団だった。劇団自体は確かに、能世のぜ春木はるきの戯曲と演出、能世という人間のカリスマ性で動いていたかもしれない。だが人心掌握はすべて不動繭理の仕事。不動繭理に惚れていない人間はただのひとりもいなかった。男も、女も、皆。


 だが不動繭理は体を重ねるならば圧倒的に男性を好むタイプの女性で、傘牧場に所属していた女性俳優の中で繭理と口付け以上の関係に進んだ者はいなかった。逆に、傘牧場の男性俳優で不動繭理を同じベッドで朝を迎えたことがないという者も──いない。


 


「カリスマカリスマってみんな能世春木を持て囃すけど、俺に言わせりゃそっちも含めてあの劇団は不動繭理のものだった。いや俺は父親に頼まれてたった一年一緒に仕事をしただけだから若い頃の不動繭理──大学に入ったばかりの頃、大学に入る前、高校生の頃、中学、小学生、生まれたばっかりの赤ん坊時代──どこまで遡ればあれほどのオンナが仕上がるのか想像すらできないけれど、まあ言っちゃうと俺も誘われました。でも寝てない。これはマジで。神に誓って。なんでって怖かったから。臥瀬さんなら分かるでしょ。一〇年前。不動繭理。いや今だって綺麗だよ。役者復帰するって話で目の色変えてる男を死ぬほど見た。でもさ不動繭理は誰のものにもならない。一〇年よりもっと前からあの女はああだった。能世が所属している株式会社ジアン──今回問題になってる『底無活劇』のプロデュースをしている会社のトップも不動繭理だ。別に隠してないのに誰も気付かない。なんでだろうな? あの女の周りにいったい何があるんだ? うちの父親に聞けばもっと何か分かるかもしれないけど、薄原家としては正直もう、不動にも能世にも関わりたくないってのが本心です。とはいえうちの弟が仕事受けちゃったからこればっかりは途中でやーめぴ! ってできなかったんだけど……大人だからね……」


 溜息。


「灘一喜か。俺とちょっと名前似てるよね。死んだんだっけ。そうね二年前。俺も知らなかった。最近知った。たぶん鹿野さんが聞かされたタイミングと近いと思う。自死だったんだっけ。なんで死んだのかな。でもなんとなく分かる気もするよ。もうさ紐解いちゃえば早いわけ。不動・能世・灘は能世を挟んだ三角関係を構築していた。でもさ。その裏で不動と灘が体の関係を持っていたら? 人間の感情としてはちょっと色々……変わってくるよね? しかも不動が所帯を持つ相手としてキープしていた能世はで、子どもは望めないと来ればさ。不動が次に選ぶのは誰? 子どもの父親になってくれればいいんだ。優秀な種さえあればそれでいい。灘。灘一喜。会ったことある。傘牧場が解散したあとも何回か……それこそ能世春木関係の舞台でね。熱心にもぎりをやったり、物販に立ったり、それからそうそう、『携帯電話、時計のアラーム等はお切りください』っていうアレをさ……アレを聞くために大枚叩いて能世の舞台を見に行ってたファンも多いって聞くよ。今はどうなのかな。そもそも傘牧場、能世春木自体がブランドだから、灘のために劇場に足を運んでた客がいなくなったところでチケット争奪戦が落ち着くわけでもなかろうし……ああ喉乾いた。臥瀬さんおかわりくださいアイスティー。甘いやつ」


 中断。


「二年。灘の死を二年隠していたのは不動繭理だと思う。理由はない。直感。灘がなぜ自死を選んだのか? それも俺には分からない。でも灘が惚れてたのは不動じゃなくて能世だと思うよ。理由? 見たから。たった一年だったけどね。傘牧場にはもう嫌ってほど関わった。灘一喜は能世にベタ惚れだったよ。可哀想なぐらい。能世も……種無しだけどあいつもとんでもねえ尻軽だったからな。不動が許す範囲では男にも女にも手ぇ出してたし、でも自分の帰る場所は不動だってアピールして──そう、不動なんだよ。能世の帰る場所にはいつも不動がいる。灘じゃない。灘は……能世にとっての灘はいったいどういう存在だったんだろう? セフレ? 愛人? 恋人? どれも合ってるし、どれも違う、気がする。灘……灘さん……最後に会ったのは三年、いやもっと前か。俺はね鹿野さん、それに臥瀬さんも。あの一年で演劇ってやつがすっかり嫌いになっちまった。不動繭理という女王蟻と、その威を借る能世春木。連中の作る舞台がどれほど良いものであっても、あんなに……ドロドロした……不動は自分に思いを寄せる男も女も利用したし、能世は不動が許す限り目一杯遊び尽くした。父が、俺に最後の一年を任せた理由はそれだと思う。付き合いきれない、って思った。んじゃないかな。分からないけど。父は傘牧場の話をしない。俺もあの一年の話しかできない。でも弟は俺を呼んだ。父を呼ぶことはできなかった。そういうことです」


 息を呑む。薄原一暉の肩の上に、手が見える。

 左手の中指に輝く翡翠の指輪。


「そういう、ことです」

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