第9話 渋谷区、シトロンビル、廊下

 薄原カンジがトイレから戻ってきたところで、鹿野素直は一旦会議室を出た。薄原一暉いつきは鹿野に名刺を渡し、


「まあ、俺で役に立つことがあったら言ってよ」


 と爽やかに言い残して去って行った。薄原一暉は現在舞台演劇の世界からは完全に離れ、保育士として働いているのだという。渡された名刺には可愛らしい犬のイラストとともに薄原一暉の名前と携帯電話番号が記されていた。

 薄原カンジと臥瀬ふせ弓波ゆみはは今秋行われる舞台についての打ち合わせを行うのだという。同席しても構わないと言われたが、断って今、会議室の前に置いてあるベンチに座っている。


 考えることがたくさんあった。宍戸に報告したいことも。それに──不田房に確認したいことも。


 若き日の不田房が不動ふどう繭理まゆりと関係を持っていた可能性がある。それに関してはかなり強めにどうでも良かった。他人事だ。だが、不田房がその頃のを持って不動繭理に対して何らかの行動を取ろうとしているのだとすれば──話は変わってくる。


 不田房を止めなければならない。


 株式会社ジアンのトップは不動繭理。『不動繭理』という名前自体がおそらく芸名で、株式会社ジアンの社長は本名でやっているのか、それとも他に名前を持っているのか。宍戸に頼めば調べてくれるだろう。

 株式会社ジアンは、『底無活劇』のプロデュースを行っている。金も時間もかけている。ではなぜ、能世春木は舞台上で事故に遭わなければならなかったのか? 不田房栄治も巻き込まれた、理由はなんだ? 愛知、宮城の公演はすべて中止となった。北海道だけは保留になっているが、遠からず結論が出るだろう。

 今回の事故と公演中止で、株式会社ジアンは多額の赤字を背負う羽目になる。金銭的に厄介なことになるのが分かっているのに事故を起こした──アレは偶発的な事故ではない、人間が関わっているものだ──理由はいったい何だ?

 ぽたり。頬を伝って汗が滴り落ちる。床に小さな染みができる。


「どうして」


 手を伸ばす。ハンカチを握る。汗を拭う。

 影が落ちる。顔を上げる。そこにはあの男がいる。

 なだ一喜いっき


「自分で自分を死なせるような、何があったっていうんですか?」


 ──微笑んでいる。

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