第6話 渋谷区、シトロンビル

「傘牧場……すか。俺が今の仕事始めた時にはもうとっくに解散してたからなぁ」


 膝の上に宍戸の愛猫・ヴェンを乗せたコオロギ透夏とうかが唸る。


「傘牧場の関係者以外は首突っ込むなって言われたら宍戸さんや鹿野さんだけじゃなくて、俺やカンジも完全に部外者になっちゃいますもんね」

「え、待って待って透夏。傘牧場にちょっとでも関係してる人間だったら首突っ込んでもいいの? そういう理屈?」


 宍戸の淹れたコーヒーを飲みながら、薄原すすきはらカンジが気の抜けた声を出す。「ああ?」と切れ長の眼を細める透夏に、


「いるよ、関係者、俺の身内に」


 青天の霹靂のようなひとことだった。鹿野も、それに宍戸も一瞬言葉を失った。


「──あ、もしかして」


 短い沈黙ののち、宍戸がハッとした様子で口を開く。


「親父さんか? かなえさん?」

「いや──」


 正午過ぎ。

 鹿野素直は薄原カンジとともに渋谷にいた。鹿野が薄原とふたりで行動することに宍戸は難色を示したのだが、今、自由に動けるのは鹿野だけだった。


「いや〜ラッキー! めんどくせえ打ち合わせも鹿野ちゃんとのデートのついでだと思えばまじハッピー!」

「カンジさん、これはデートでは……いやもうなんでもいいか……」


 ピカピカの笑顔を浮かべた薄原と腕を組み、鹿野は渋谷区・シトロンビルの前に立っていた。地下鉄直結の地下一階から地上三階までは商業施設、四階から六階までは様々な企業のオフィスが入っており、七階から九階は渋谷区内でも最多のスクリーンを擁するシネマ・コンプレックス、一〇階はテアトル・ノワール──座席数700という規模の劇場、そして十一階から上は観光客向けのホテルが入っている高層複合ビルだ。薄原カンジの打ち合わせ先はシトロンビルの六階にある、テアトル・ノワールの管理オフィスである。


「鹿野ちゃん、どっかでお茶してく? お腹空いてない?」

「カンジさん、もう正午過ぎですよ! 待ち合わせ時間過ぎてますから!」

「そっか〜。じゃ打ち合わせ終わったらご飯食べよーね!」


 大丈夫なのかこの人は、と思いつつ、鹿野は薄原の背中を押してエレベーターに乗り込む。地下階から上昇するエレベーター。乗り合わせたほとんどの人間は一階から三階で降りていく。

 ガラス張りのエレベーターから渋谷の街を見下ろしているあいだに、六階に辿り着いていた。「行っくぞ〜!」と元気に手を引く薄原は、本当に打ち合わせに参加する気持ちがあるのだろうか。不安になる。


「こんちはー! ススキ大道具の薄原でーす!」

「あ……失礼します、助手の鹿野と申します……」

「ああ、薄原くん! 今回は災難だったね。やっと連絡が取れて安心したよ」


 オフィスの受付を通過して、薄原は真っ直ぐに目当ての会議室に向かう。勢い良く扉を開けた彼を迎えたのは、淡いブルーのシャツに黒いスラックス姿の、長身の女性だった。


「どうもどうも臥瀬ふせさん! ご心配おかけしましてぇ!」

「いや、私は大して心配してなかったけどね。きみが故意に事故を起こすなんてこれっぽっちも思ってなかったから」

「臥瀬さんならそう言うと思ってたぁ! 臥瀬さんだーい好き!」

「ところでそちらは?」


 勢い良くハグをしようとする薄原を慣れた動きで避けた臥瀬が、鹿野に視線を向ける。やはり一旦自宅に戻って名刺を持ってくるべきだったと反省しつつ、


「鹿野素直、と申します。この度、薄原さんの助手として参りました」

「鹿野……? ?」

「え゛っ゛」


 思いもよらない台詞だった。狼狽えて視線を彷徨わせる鹿野の肩を抱いた薄原が、


「そうそう! 不田房ふたふさ栄治えいじさんの演出助手!」

「ちょっとカンジさん!」

「言ったでしょ、別に設定なんか作らなくていいって」


 たしかに、電車で移動する最中薄原はそんなようなことを言っていた。「念の為カンジさんの助手という設定でオフィスに入りたいんですけど」と申し出る鹿野に「演技とかしない方がいいんじゃな〜い?」とのんびり応じていたのだが、


「ご、ご存じで……?」

「もちろん。あなたは知らないかもしれないけど、私は何度もスモーカーズの公演を見に行ってるよ」

「し……失礼しました……」


 柔らかな黒髪を揺らした臥瀬は、不田房と同世代ぐらいだろうか。いや、もしかしたらもう少し年上かもしれない──


「それでねぇ臥瀬さん。LINEでもお伝えした通り、打ち合わせとべっこで相談したいことがあるんだけど……」


 薄原が言っていた「傘牧場の関係者」とは臥瀬のことなのだろうか。期待の目で見上げる鹿野に臥瀬は静かに頷き、


「とりあえず座ろうか。彼もそろそろ来るでしょう」

(……彼?)


 臥瀬に誘われるがままに、会議室の椅子に座る。スーツ姿の男性が現れて、三人の前にアイスティーのグラスを置いて去って行く。

 雑談を交わす薄原と臥瀬に挟まれて、鹿野はひとり落ち着きなく辺りを見回したり、ポケットの中のスマートフォンを触ったりして過ごしていた。

 どれほどの時間が経ったろう。会議室の扉が、ゆっくりと開く。


「あー! 遅い!」


 薄原カンジが大声を上げる。

 臥瀬が席を立ち、「ご無沙汰」と大きな手を振った。


「どうも、遅くなりまして。いやあ、横浜から渋谷って近いようで遠いですね」


 薄原カンジと、良く似た顔立ちの男性だった。紫色のバンドTシャツに、膝に穴の空いたデニムを履いている。


「そちらがスモーカーズの鹿野さん? 初めまして。カンジの兄、薄原すすきはら一暉いつきと申します」

「お兄さん……?」

「学生時代、。とはいえ解散直前の、半年間だけなんですけどね」


 と、一暉は爽やかに笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る