第4話 新宿区、喫茶店⑥

 へべれけになったきさらぎ優華ゆうかをタクシーに乗せ、然程酔っ払っていない桃野もものももが「歌舞伎町でもうちょっと飲む〜」と去るのを見送り、


「行くか」

「ですね」


 宍戸ししどの言葉に鹿野かのは頷き、きょとんとした様子の不田房ふたふさの腕を引いて三人は目的地に向かう。桃野が歌舞伎町のどこに向かったのかは分からないが、三人が目指す先も歌舞伎町にあった。純喫茶カズイ。翡翠の指輪事件の始まりとなった場所だ。


「また来た」


 ドアベルを鳴らして入店する宍戸の姿を見るなり、マスターが呆れ声で笑った。


「事件は解決しそうなのか?」

「あと一歩ってところなんですけどね……最近、間宮まみやは来てます?」

「いや。おまえたちと舞監やら大道具やらの話をしてた日が最後だな」

「そうですか」


 不田房と鹿野をテーブル席に座らせ、宍戸がカウンターで注文をする。三人分の日替わりコーヒー。不田房が大きくため息を吐き、紙巻きに火を点ける。先ほどの中華料理店では、それなりに飲んでいたようだったが。


「いやいや……桃野くんのアレで酔いなんかすっ飛んじゃったよ」

「アレ」


 ──能世のぜ春木はるき不動ふどう繭理まゆりの娘であり、現在俳優として活動している石波いしなみ小春こはるの顔立ちは、実父であるはずの能世春木にまるで似ていない。


「まあ、どっちかっつったら不動に似てるとは思ってたけど」

「目元とか、そっくりですよね」

「で、可能性はあるのか?」


 コーヒーカップをテーブルの上に並べながら、宍戸が尋ねた。


だっていう」

「いやそれさぁ……それ……俺としてはあんまり考えたくないっつうか……」


 歯切れが悪い。紫煙をため息と一緒に吐き出した不田房は、


「俺が能世に確認する。それまで保留じゃ、ダメ?」

「保留でもどうでもいいんですけどこっちは」


 不田房につられるように煙草を取り出しながら、鹿野はぎゅっと眉間に皺を寄せる。


「石波小春さんが実際誰と誰のあいだに生まれたお嬢さんかってことは私たちにとっては本当にどうでもいいことなんですよ。不田房さん。少し混乱してませんか?」

「え? ……してないよ」


 してないはずがない。今の不田房は、鹿野の知る不田房栄治ではない。大学時代、劇団傘牧場の俳優として活動していた『』の顔をしている。

 現在の不田房がどういうスタンスで活動しているにせよ、劇団傘牧場で過ごした日々が彼の人生に何の影響も及ぼしていないということは──ない。傘牧場に所属しなければ、能世の演出を受けてステージ上に立たなければ、不動繭理に、灘一喜に、それに今それぞれに俳優業を続けたり、別の場所で日々を過ごしているメンバーに出会わなければ──演出家、『スモーカーズ』の不田房栄治は存在しないのだ。


「ひとつ」


 人差し指を立てる。

 不田房が大きく瞬きをする。


「能世さんの肩の上に、それに石波小春さんの肩の上にも出現した、翡翠の指輪を嵌めた手」

「えっ。石波小春のところにも……?」

「ふたつ」


 人差し指と中指を立てる。


「『底無活劇』の公演を妨害しているのは結局誰なのか。不動繭理さんで間違いないのか。だとしたら動機はいったい何? 北海道公演はどうなる?」

「それは……それも俺が、不動に……」

「みっつ」


 加えて薬指。


「灘さんが逝去したという事実を二年間も隠匿したのは誰で、理由は?」

「──」


 不田房の指先で、煙草の灰がぽろりと落ちた。デニムを汚す灰に、不田房はまるで気付いていない様子だった。


「私たちが解決すべき問題はこれだけです。石波小春さんの出生に何か秘密があるとしても、放っておいて良い話です」

「同感」


 丸椅子を引っ張ってきて鹿野と不田房のあいだに座る宍戸が、口の端を歪めて言った。


「特に翡翠の指輪の手に関しては俺も目撃してるから。早めにどうにかしたい」


 不田房は何も言わない。黙って吸い殻を灰皿に押し込み、片手で口を覆って沈黙している。


「とはいえ、順序としては『底無活劇』の公演妨害の件をまずどうにかしたいな。コオロギとカンジの汚名返上をしてやらにゃならん」

「ですね。このまま放置してたら、おふたりの仕事がなくなっちゃう」

「で、北海道公演もきちんと……予定通りに行くとしたら来週現地入りか? 時間がないな」

「今の舞監の王城おうじょうさんって方は信用できるんでしょうか?」

「……あのさ!」


 テーブルに手を付き、不田房が声を上げた。大声ではない。だが、無視することのできない、強い響きだった。


「あのさ……鹿野、宍戸さん、巻き込んでほんとごめんなんだけど。この件もう、忘れてもらえないかな?」


 鹿野はぽかんと口を開き、宍戸は「なに?」と低く問い返す。この三人で仕事をするようになって、初めて経験する空気だった。


「だから……例の手のことも、公演妨害のことも、灘が死んだことを誰が隠してたのかっていうのも……

「どう、いう」

「でもそれは、全部、全部傘牧場っていう劇団があったせいで起きたことだから。……だからもう、ふたりには関わってほしくないっていうか」


 怒りを感じるかと思った。だが、その瞬間の鹿野を襲ったのは薄っすらとした絶望だった。

 部外者は立ち入るな。不田房は、そう言っている。


「おい」


 怒気を孕んだ声を上げたのは宍戸クサリだった。


「いきなりなんだ? 俺たちを巻き込んだのはおまえなんだぞ不田房。それなのに急に──傘牧場に関係ない人間は引っ込んでろ、だ?」

「そうは言ってない」

「言ってるだろうがよ!」


 宍戸の大きな手が不田房の胸ぐらを──素通りして、鹿野の手首をぐっと掴んだ。


「帰ろう」

「う、あ、宍戸さん」

逢坂おうさかさん、お騒がせしてすみませんね。コーヒー代」

「……大丈夫なのか?」


 カウンターの中で文庫本のページを捲っていたマスター・逢坂が太い眉を寄せて尋ねる。


「まったく大丈夫じゃないですね。でも俺この店で人を殴ったりしたくないんで、もう出ます」

「気を付けて帰れよ。鹿野さんも、またおいで」

「はい。また、来ます」


 宍戸に引きずられるようにして、純喫茶カズイを出た。不田房の顔を振り返る、なんてことはできなかった。

 雑居ビルの地下一階にある純喫茶カズイから、歌舞伎町の地上に。鹿野の手首を掴む宍戸の手からは、力が抜けていた。

 縋る場所を探しているかのように、弱々しい手だった。


「宍戸さん」

「……鹿野、悪いな」

「いいっすよ。私も不田房さんのこと、座ってた椅子で殴ろうと思ってました」

「ふはは」


 力なく笑う宍戸の手を、今度は鹿野が掴む。


「帰りましょう宍戸さん。猫ちゃんがおうちで待ってるでしょ?」

「ああ。鹿野も来るか?」

「そうですね。最近うちの実家に集合してばっかりでしたし、久しぶりに宍戸さん家にお邪魔するのもいいですね」

「よし。飲み直そう」


 雑踏の中を、ふたり、手を繋いで歩く。

 こんな日が来るなんて思ったこともなかった。

 来てほしくなかった。

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