第五章 石波小春、或いは鹿野素直

第1話 新宿区、泉堂舞台照明②

 石波いしなみ小春こはる、職業俳優、性別女性、本名非公開、年齢は今年で十七歳。


わっか


 宍戸ししどクサリが眉を下げて言う。そう。若い。宍戸とは親子ほどに年齢差がある。


「俺からしたら孫だなぁ」


 泉堂せんどう一郎いちろうもまた、困り果てた様子で続けた。たしかにそうかもしれない。あの日。船頭舞台照明に不田房栄治を訪ねてやって来た石波小春は、実年齢よりずっと大人びて見えた。


「能世ちゃん……能世のぜ春木はるきに生殖能力がないって噂はまあ、俺も聞いたことあるよ」


 デスクの上に置いてあった箱から煙草を取り出しながら、泉堂はいかにも言い難そうに言葉を吐き出す。宍戸と鹿野かのは一瞬視線を交わし、


「個人情報ですしね。私もカンジさん……のお兄さんから直球でその、」

?」

「それです宍戸さん。すごい暴言だなぁなんか。とにかくそう言われるまではあの……能世さんってモテるし日本中に子どもがいそうだな逆に、みたいに思っていたというか……」

「分かるよ」


 煙草を二本咥え、火を点け、一本を鹿野のくちびるに挟みながら宍戸が肩を竦める。薄原すすきはらカンジとはシトロンビルで解散した。「お茶しようって言ったのに!」と大騒ぎする薄原カンジの首根っこを掴み「打ち合わせが終わってないし、鹿野さんにも仕事があるだろ!」と一喝する臥瀬ふせに、「気を付けてね」といやにシリアスな調子で念を押されたのが少し怖かった。

 地下鉄の駅に向かう道すがら宍戸に連絡したところ『泉堂さんの稽古場にいる』と返信があったので、宍戸の自宅ではなく泉堂舞台照明に移動した。今日は誰も、劇団も個人も、泉堂舞台照明ビルの地下にある稽古場を使用していないようだった。静かだった。電車を降りて、目的地に向かって歩いている途中で雨が降り始めた。傘を買うほどの降り方ではなかったので、鹿野は久しぶりに走った。大人になると、意識しなければ『走る』という動きをあまりしなくなるな──などと思いながら。


「石波小春が現在17歳。不動ふどう繭理まゆりと能世春木が離婚したのが?」

「二年前」

なだが自死したのは?」

「二年前……なんですか、二年、二年って。二年のあいだに何があったっていうんですか」


 鹿野は正直、疲れていた。誰でもいい、あの間宮という名の女探偵でもいいからこの場に颯爽と現れて、謎解きをしてくれないか。

 鹿野素直は演出助手なのだ。探偵助手ではない。それにこの場に探偵はいない。


「泉堂さん」

「あいよ」

「疑うわけじゃないんですけど、泉堂さんも……」

「灘ちゃんのことか。死んだってことは、知らなかった」


 紫煙を吐き出しながら、泉堂が宍戸の問いに応じる。「死んだってこと以外は?」と重ねて尋ねる宍戸に、


「能世ちゃん──株式会社ジアンが主催する能世春木作演出の公演は二年ぶり、前作と『底無活劇』のあいだにはちょうど二年のブランクがある」

「……そういやたしかに、チラシすら見かけませんでしたね。能世春木個人はあれこれ活動していたから気付いてなかったけど……」


 無精髭の浮いた顎を撫でながら宍戸が唸る。能世春木は、能世春木という個人の名前で精力的に劇作家・演出家・俳優として活動している。一昨年も、去年も、能世の名前が大きく印刷されたチラシを鹿野も何度も目にしている。


「二年前に不動と離婚した際に何かあったって考えるのが妥当かなぁ」

「おまえみたいな尻軽種無し野郎のプロデュースはもうやらない、ってキレられた的な?」

「鹿野、お口悪すぎ」

「だってぇ」


 泉堂舞台照明の一階事務所兼駐車場からは、すべての車両が出払っている。灯体も置かれていない。静かだった。雨の降る音だけが響いていた。


「でもま、薄原兄の証言が取れたのはラッキーだったな」

「まったくほんとに、私だって一暉いつきさんみたいな目に遭ったら秒で足洗ってますね、こんな乱れた業界」

「鹿野、演助えんじょ辞めたくなったらいつでも照明班においで」

「ちょっと泉堂さん、どさくさに紛れて困りますよ。俺だって鹿野に抜けられたら困るんだから」

「ははは……」


 会話の中身がスカスカだ。スカスカなことしか言えない。本当のことを知っている人間は、ここにはいない。

 不田房ふたふさ栄治えいじを捕まえて、彼の知っていることを、思惑を、すべて吐かせなければならない。

 もし鹿野素直が演出助手を辞めるとして、業界そのものから去るとして──最後に片付けねばならない仕事は、どう考えてもそれだ。

 不田房とはもう一〇年の仲である。師弟であり、相棒であり、友だちであり、半身と称しても過言ではないほどに近しい関係でいた。

 その不田房が何かとんでもない、彼ひとりの手では決して解決できないような何かに巻き込まれているのなら。


(死なば諸共、解散するのは、死んでからでいい)


「ねえちょっと! 外雨すごいんですけどーっ!!」


 鹿野の真摯な誓いを他所に、聞き慣れた声が泉堂舞台照明の一階事務所に響き渡った。

 シャッターを上げたままのビルの入り口に、びしょ濡れのビニール傘を手にした間宮まみやかなめ探偵が立っていた。

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