六回 學びて思はざれば則ち罔し

第45話 貢院

 貢院こういんは非常に広大な施設である。

 大門からまっすぐ伸びる大通りは甬道ようどうと呼ばれ、両側には約二・一メートル間隔で無数の小道が連なっている。さらにその小道に所狭しと配置されているのが、挙子たちが二泊三日×かける三回を過ごすことになる独房、号舎ごうしゃである。


 幅と奥行きはそれぞれ約一メートル。手入れもされていないため黴臭くて陰気臭い。入口の戸はなく吹き曝しであるため、自分で持ち込んだ布で仕切りを作る必要があった。まるで蜂の巣にぎっしり幼虫が詰め込まれているかのような風景である。


 この劣悪な環境で答案用紙に立ち向かうのは当然、困難を極めた。

 記録上、試験中に精神を病んでしまった者の例は枚挙に暇がない。一文字も書けずに提出することはもちろん、ひどい場合は横死して係員に回収される例もあった。


 ゆえに全身全霊を尽くして挑まなければならない。

 これまでの県試、府試、院試などとはわけが違うのである。


(問題ない。これまで同様、何食わぬ顔で合格してやればいい)


 雪蓮せつれんは号舎の中で瞑想しながらその時を待っていた。

 昨日の晩で入場を済ませた挙子たちは、各々の部屋で夜を明かすことになる。


 翌朝の試験に備えて眠るつもりでいたが、叫び声や泣き声、ぶつぶつと経書の一節を唱える声が聞こえてきたため幾度も起こされることになった。おかげで目の下には隈ができているのではあるまいか。


梨玉りぎょく欧陽おうようぜんは大丈夫だろうか……)


 結局、彼らとは途中で別れてしまった。どの号舎に入ったのか見当もつかないため、会いたければ一つ一つ号舎を確認しなければならなかった。


 出歩くことは不可能ではないが、中央の見張り台では係員が目を光らせているため、不用意な行動は慎まなければならない。


 そもそも一万八千もの挙子の中から捜し出すのは不可能に近かった。欧陽冉に提案した「互いに協力しよう」という作戦は、結局何の意味もなくなってしまったのである。


 これからは完全なる個人戦だ。

 他の連中にはそれぞれ頑張ってもらうしかない――雪蓮は溜息を吐いてカーテンの向こうの空を見上げた。その瞬間、貢院全体に轟きわたる空砲の音が鳴り響いた。続いてあちこちから係員の叫びが聞こえてくる。


「おい、起きろ! 答案用紙を配布する! 預かり証を用意しろ!」


 ついに始まるようだ。

 宵闇に薄明かりが紛れる程度の時刻だが、まどろんでいる場合ではなかった。

 雪蓮は受付所でもらった預かり証を係員に渡し、かわりに答案用紙を受け取る。


(さて……)


 荷袋から筆や硯、水差しなどを準備し始める。

 タイムリミットは翌日の夕刻。

 それまでに渾身の回答を作り出さなければならない。


 だが雪蓮は不安など少しも感じていなかった――何故なら血のにじむような努力を重ねてきたからである。今更科挙の問題ごときで躓くわけがないのだ。それより重要なのは、紅玲こうれい朝への復讐を遂げる方法。特に夏琳英は何かを企んでいる気配があるから細心の注意を払うべきだった。


(――まあいい。さっさと解いてしまおうか)


 雪蓮は何気ない気分で答案用紙をめくった。

 初日は四書題が三つ、詩第が一つ。

 四書(『大学だいがく』『中庸ちゅうよう』『論語ろんご』『孟子もうし』)はもちろん暗記している。

 詩作の腕もそれなりに磨いてきたつもりだ。

 躓く道理はどこにもない。


「……ん?」


 だが問題を見た瞬間、思考が一瞬停止した。

 そこに書かれていたのは、何の変哲もない四つの問題。

 変則的な部分は何もない。引っ掛けがある雰囲気もない。


 だが挙子ならば誰もが息を呑むに違いない――正考官・春元しゅんげんは、こちらの息の根を止めるつもりらしいのだ。


(上等じゃないか)


 冷や汗が垂れ、雪蓮は思わず口の端を吊り上げた。

 試みに最初の問題を熟読してみる。



 九経きゅうけいこうについて述べよ。

 また天下に存する経済問題を一つ選び、功を援用して解決策を論ぜよ。



          □



 挙子たちの唸り声が聞こえてくる。

 青龍せいりゅうはいったん筆を置き、壁に背を預けて息を吐いた。


(……難解だ。やはり郷試にも改革が施されているらしい)


 前回の院試のごとく変則的な要素は何もない。

 そのぶん、ストレートに難問なのだった。


 答案用紙に記載された四つの問題文は、いずれも即座に暗記できるほど短い。ゆえに少ない文字から出題者の求めるものを看破し、他の追随を許さない優れた文章を綴る必要があった。


 何より厄介なのは、詩第はともかく四書題のすべてが現代の問題と絡めて論ずるように指定している点である。


 たとえば第一問にある経済などという観点を挙子たちが持っているとは考えにくい。紅玲が指定している教科書には書かれていない概念だからだ。平たく言えば、習っていない分野ばかりが出題されている。


 分からぬからといって闇雲に自分の意見を書けば、罷り間違って紅玲朝への誹りと受け取られる危険性もあるため、慎重に筆を動かさなければならなかった。


(これはまずいな)


 李青龍は腕を組んで思考を巡らせる。

 雪蓮は心配あるまいが、梨玉や欧陽冉は乗り越えることができるだろうか。



          □



 問題を見た瞬間、落第の二字が頭を掠めた。

 欧陽冉は筆を取り落とし、呆然とした思いで答案用紙を見つめる。


(僕には難しい……)


 単に四書五経や注釈を暗記すればいいわけではない。

 従来通りに試験官に阿った解答をすることもできない。

 ここでは現実の課題に対処するための知見が問われているのだ。


 科挙受験者は畢竟、過去に囚われた人々である。四書五経を覚え、その一字一句に込められた古人の思想を咀嚼することに専心するが、学んだことを現代に活かすすべを持っていない。少なくとも紅玲朝の科挙受験者たちは概ねそうであった。


 歴史ばかりを見つめた結果、身の回りのことなど眼中から消えている。

 今社会で何が起きているのかを知らないのだ。


「ふざけやがって! 去年と全然違うじゃねえか!」


 隣の部屋から罵声が聞こえ、欧陽冉はびくりと肩を震わせた。

 それを皮切りに近場の号舎で挙子たちが声をあげ始めた。しまいには壁をドンドンと叩く音まで聞こえてくる。動揺するのも無理はない――前回の郷試と比べ、問題の質が明らかに難しくなっているからだ。


 ふと脳裏に浮かんだのは、郷里の村のことだった。

 父母から孝行を強いられ、大した理由もなしに打擲ちょうちゃくされる日々を過ごしてきた。家や故郷といった狭い空間の中に閉じ込められていたのである。そういう生い立ちの人間が、どうして天下の諸問題に通暁できようか。


(今家族のもとには戻れない)


 梨玉は今回が最後のチャンスだと言っていたが、欧陽冉の懐事情も芳しくはなかった。郷試を受けられる回数には限りがある。もし成果の出ないまま郷里に戻れば、暗鬱として先の見えない日々が待っているに違いない。


 梨玉、雪蓮、李青龍とともに紅玲の朝廷に入ること。

 それが欧陽冉の新しい夢だった。

 筆を握りしめ、持てる知識を総動員して文章を練る。


 まず九経。

 これは『中庸』の中に見られる言葉だ。

 身を修めること、賢者を尊ぶこと、親族と仲良くすること、朝廷の大臣を尊ぶこと、官吏となって働きその身分を自覚すること、万民を子として扱うこと、様々な技術を持った人々を招聘して取り立てること、遠くから出仕する者を慰撫すること、諸侯など各地の実力者を手懐けること――その九つだった気がする。


(そして功だから……九経によって天下がどう治まるかを示した後、それと関連させて現実の商売などが盛んになる方法を書けばいいのだろうか……?)


 難しい。落ち着いて考えても光は未だ見えない。

 欧陽冉の頭の中では無限の文字が飛び交っている。


(大丈夫。死力を尽くして頑張ろう)


 それでも欧陽冉は立ち上がる。

 科挙登第するために。官吏になるために。梨玉たちと一緒に働くために――初日から躓くわけにはいかないのだ。

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