第52話 看破
外の廊下で待たされることになった。
傍には兵卒が目を光らせている。不審な動きを見せたら問答無用で処罰してやる――そういう強い意志が感じられた。雪蓮は壁に背を預けて溜息を吐く。
(いや、絶対に何か裏がある)
あの女は昔から得体が知れない。
生来の魅力で周りの人々を自然と自陣に引き入れ、敵対している党派の者すら感化してしまう女傑。
公主時代に直接何かをされた経験はない。むしろ慈しみで以て遇されていた。たとえば宮廷の庭園を案内され、花々の名前を一つ一つ丁寧に教えてもらったこともある。
しかし雪蓮が夏琳英に心を開くことはなかった。
直感的に忌避していたのだ――この女は残虐な刃を隠し持っている気配があると。
その直感は当たった。夏琳英は叔父のクーデターに手を貸したのである。
ゆえに今回も細心の注意を払うべきなのだが。
「あ、小雪! お待たせ~」
しばらく待機していると梨玉が現れた。
兵卒に付き添われつつ、軽やかなステップで近づいてくる。
「長公主と何を話したんだ?」
「えへへ……たくさん褒められちゃった! ほらこれ見てよ、長公主様が私にって! 似合ってるかな? ちょっと豪華すぎて気後れしちゃうんだけど」
梨玉の髪には見慣れない飾りがついている。
紅玲の紋章、龍が刻まれた金色の
「何だそれ? 長公主からもらったのか?」
「うん。もったいないですって何度も遠慮したんだけどね、長公主様が絶対似合うだろうからって……さすがに断れなくていただいちゃった」
「そんなのつけてたら余計に女っぽく見えるだろ」
「大丈夫だって! 長公主様のお墨付きなんだもん。それにこれを挿していると俄然やる気が出てくるんだ。絶対合格してやるぞ――って! もうあれだね、臆病風に吹かれている場合じゃないね! 明日からの試験も頑張っちゃうよ!」
梨玉のテンションは一挙に跳ね上がってしまったらしい。
今朝までの鬱屈とした雰囲気が嘘のようだった。
(すっかり懐柔されやがって……)
梨玉ですら夏琳英の魔性に魅せられてしまうとは。言い知れない虚しさを感じずにはいられなかった。
とはいえ、雪蓮は一種の安堵も抱いていた。
警戒は緩めるべきではないが、ひとまず夏琳英が梨玉に対して陰謀の触手を伸ばしている可能性は低い。純粋に梨玉の官吏としての能力を認め、依怙贔屓しているようだ。そうでなければ激励の言葉を送ったうえに贈り物まで下賜する理由はない。
「梨玉、あまり長公主殿下に傾きすぎるんじゃないぞ」
「どうして?」
純粋に問われ、少し言葉が詰まった。
「……身分の違いが甚だしいからだ」
「だからこそだよ! 長公主様は身分に関係なく優秀な人と交わるようにしているんだって! だからもっと長公主様に認められるように頑張りたいな」
そのポジティブさは今回に限りマイナスに働く危険性があった。
不意に梨玉が思い出したように声をあげる。
「あ、そうだ! 長公主様が小雪を呼んでたよ? 二人きりで大事な話をしたいんだって……何だろね?」
雪蓮は思わず身構えた。
「分かった。あんたはこれからどうするんだ」
「号舎に戻って郷試に備えるつもり。長公主様に期待されちゃってるかんね、二回も下手な答案を書くことはできないよ! じゃあ小雪、また明後日の夜に会おうね!」
梨玉は手をひらひらさせて去っていった。
あの様子ならば心配はあるまい。
雪蓮が次に懸念するべきことは一つ。
(夏琳英の用事だ。やつはいったい何を考えているのか……)
雪蓮は兵卒に先導されて先ほどの部屋に向かった。
扉が開かれ、相変わらず芳しいお香の匂いが漂ってくる。
奥の椅子に腰かけた夏琳英は、雪蓮の姿を認めるなり友好的な笑みを浮かべて立ち上がった。
「お待たせしてしまったわね、雷雪蓮。あなたとは一度話しておきたかったの」
「何用ですか。目をつけられることはしていませんが」
「それはどうかしらね――皆さん、私とこの挙子二人きりにしてくれませんか? これから少しだけ内密なお話をいたしますので」
心臓が早鐘のように鳴る。
官吏や兵卒たちは動揺した様子を見せた。
「しかし長公主殿下、何があるか分かりませんゆえ……」
「大丈夫。何かあったらすぐに呼ぶわ」
「……は。承知いたしました」
簡単に説得され、礼をしながら部屋を出ていった。
残されたのは雪蓮と夏琳英の二人だけである。空気がひりついていくのが肌で分かった――否、自意識が暴走しているだけなのか。いずれにせよ夏琳英は底知れぬ笑みを浮かべて雪蓮を見つめた。
「雷雪蓮、話しておきたいことがあったの」
「何でしょうか。郷試に備える必要があるので手短にお願いできれば幸いです」
「一目見た時から引っかかっていたわ――だって忘れるはずがないもの」
言葉が詰まった。嫌な汗が噴き出してくる。
「ねえ覚えてる?
信じがたい。
変装は完璧のはずだったのに。
「……お話が見えません。誰かと勘違いなさっているのではありませんか」
「そんなことはありません。あなたの真名は夏雪漣。七年前の政変で敗れた廃太子の娘にして
雪蓮は唇を噛んで立ち尽くすしかない。
夏琳英はふと相好を崩して言った。
「警戒することはないわ、私はあなたの味方なんだから。それにしても本当に雪漣なのね――生きていてくれて本当によかった。これまでどこで何をしていたの? どうして科挙を受けているの? 挙子ってことは学校試を乗り越えたってことよね? あなたは昔から頭がよかったもの、全然おかしなことじゃないわねえ」
確信を持った眼差しである。
この女は昔から尋常ではない目を持っていたのだ。
これ以上は隠しても無駄らしい。
雪蓮は手の震えを力で押さえつけながら口を開いた。
「いったい何が目的ですか。僕を捉えて処刑でもするつもりですか」
「とんでもない! 私はずーっと心配していたのよ? 七年前、炎の中に消えていったあなたの顔が未だに忘れられないわ……毎夜どれだけ後悔したかも分からない。あの時手を差し伸べていれば助けられたかもしれないのに」
いったいどの口がほざくのだろうか。
夏琳英はあのクーデターに手を貸していたはずだ。
雪蓮の怒りは昨夜の炎のごとく燃え広がっていく。
「……少しお聞きしてもいいですか」
「何かしら?」
「あなたは何故正考官を? 僕が
「知っていたならもっとはやく使いを送っていたわ! 私が呉春元と一緒に正考官をやっている理由は、科挙制度の問題点を洗い出すようにと勅命を受けているからよ。だから雪漣を見つけた際、びっくりしちゃった! 前回は周りに人がたくさんいたから黙っていたけどね」
「これから僕をどうするつもりですか」
「京師天陽にご案内するわ! 長楽公主の号を復活させて天下に知らしめるの。それにあなたは郷試に応じられるほど賢いから、私と一緒に陛下のもとで働くっていうのも素敵な選択肢よね。さあ、さっそく出発の準備をしてくださいな」
この女は何も分かっていない。
雪蓮がどんな思いで科挙に臨んでいるのかを分かろうともしない。
そうだ――思い出した。
昔から夏琳英は自分のことを天の中心、北極星か何かと勘違いしているのだ。皇帝以外のあらゆる人間は自分の考えに従って当たり前。一度でも拒絶した者には以後、一切の目をかけない。
「最後に一つだけ質問してもいいですか」
「何でも聞いて! かわりに私からも色々質問させてもらうけどね」
「では遠慮なく。七年前、叔父の軍勢にお父様の居場所を教えたのはあなたですか」
一瞬、夏琳英が表情を失くした。
瞳に冷たい光が差したのも束の間、即座に柔らかな微笑みを取り戻す。
「そうですわ」
今度は雪蓮が感情を失った。
「天命だから仕方がありません。廃太子は当時、徒党を組んで
嘘だ。
すべて
「だからお兄様――今の皇帝陛下は立ち上がったのよ。雪漣には気の毒かもしれないけれど、仕方のないことだったの」
雪蓮の父親である
理由はよく分からない。単に性格的に相容れなかったのか、他に抜き差しならない事情があったのか。いずれにせよ夏鉉世が皇帝に即位すれば、夏琳英は色々と肩身が狭くなるのは必至だった。
だから弟である光乾帝――
そうだとすれば、何とろくでもない話であろうか。
「――ねえ雪漣、あなたは別よ。父親とは違って才能を持っている。あなたが私の右腕になってくれれば、紅玲はもっとよくなっていくわ。歴代でも類を見ないほどの繁栄はすぐそこに」
「申し訳ございません。僕は郷試を受けなければなりませんので」
虚を
「どうして?」
「縁故で官吏になったら他の挙子に申し訳ないのです」
夏琳英はくすくすと笑った。
「本当に科挙登第する気なの? いったい何を考えているのかしら」
「もちろん官吏として働くつもりですよ。私は政変によって宮廷を出ざるを得ませんでしたが、別に過去に拘泥しているわけではありませんから」
「へえ……」
扇子が開かれる。口元を隠しながら夏琳英は言った。
「何か勘違いしているかもしれませんが――私も皇帝陛下もあなたのことは何とも思っていないからね? 雪漣に何の罪もないことは分かっているもの。政治的な問題についても同じよ。廃太子の娘が今更舞い戻ってきたところで光乾帝の治世は揺るがないわ」
「何故そんなことを僕に言うんですか」
「だって嘘を吐いているでしょ? どう見ても過去に囚われているじゃない」
「そうでしょうか。それこそ勘違いでは」
「ふふ、そうね――あなたは強情な子だったわね。自分のやり方で一度やってみないと気がすまない。でも結局は私に負けていたわ。双六でも象棋でもそうだった。でも今回は選択を間違わないでね? そういう短慮が身を滅ぼすのよ」
「…………」
駄目だ。この女は一筋縄ではいかない。
雪蓮の反骨心が見抜かれている。自分がよく思われていないことを承知している。この場で絞め殺してしまおうか――否、そんなことをしたら郷試は台無しだ。護衛に取り押さえられ、極刑に処されるのが落ちである。
「気が変わったら教えてね。いつでもあなたを皇帝陛下に推挙するわ」
「……はい。そういうことにはならないと思いますが」
「血のつながった家族は仲良くするべきよ? 私はあなたと仲良くなりたいと本気で思っているの。昔みたいに宮廷でおしゃべりできる日が来ることを楽しみにしているわ」
「では僕はこれで」
「ああそうそう」
踵を返したところで思い出したように夏琳英が口を開いた。
少し嘲りを含んだ視線を向けられる。
「――男装、似合ってないわよ? もともと器量がいいわけじゃないのに、いっそう台無しになってるわ。それじゃあ嫁の貰い手もいないんじゃない?」
束の間、頭の中が真っ白になった。
辛うじて言葉を捻り出す。
「放っておいてください」
「ええ放っておくわ。あなたの性別を言いふらしたりはしません。科挙では誰にでも平等に機会が与えられるべきだもの――たとえそれが皇帝陛下に思うところを抱えた不埒者であったとしてもね」
「いいえ。今まで一度も叔父を恨んだことはありません」
「そうかしら? じゃあ、そういうことにしておいてあげるわ」
どうやら完全に嫌われてしまったようだ。
夏琳英の提案に喜んで飛びつかなかったのが原因らしい。
雪蓮は恭しく礼をしてから部屋を出た。
秋に差し掛かったこの時節、雲景府の気候はすこぶる良好である。しかし雪蓮の胸にわだかまるのは、打って変わってやり場のない黒い感情だった。
(くそ……)
拳を握って壁に叩きつけた。
皮膚が擦れて血がにじむ。
頭の中を巡るのは、悪意に彩られた夏琳英の笑み。現状、雪蓮の命はやつの掌中に握られているといっても過言ではない。夏琳英が正考官の権利を振りかざして雪蓮を糾弾すれば、一瞬で挙子としての資格を奪われてしまうのだ。
もう少し従順に振舞っておけばよかったか。
いや、それは無理だ。
仇を前にして冷静でいられるほど成熟していない。
雪蓮は大きく深呼吸をしてから思考を再開した。
(……大丈夫。切り抜ける方法はあるはずだ)
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