第38話 匪賊

 県学の敷地を出た途端、耳をつんざくような怒号が聞こえた。


「何やってるんだ! 大人しくしろ!」

「放せ! 紅玲の不当を訴えているだけではないか! いったいどれだけ税を毟り取ったら気がすむのだ、ええい、貴様らのような官匪どもには必ずや天罰が下るであろうよ!」

「黙れ! こんな紙をばらまきおって――おい、連れていくぞ!」


 官憲と揉め事を起こしている者がいるらしい。

 お縄にかけられたのは、襤褸ぼろ布をまとった男である。兵士たちに連行されながらも濁声で何事かを訴え続けている。彼の手には何かが書かれた紙のようなものが握られていた。よく見れば、往来の地面に何枚も散らばっている。


「やあ、あれは何でしょうかね?」


 李青龍がたむろしていた野次馬に声をかけた。

 問われた老爺は「知らないのか?」と眉をひそめ、


「やつらは近頃のさばっている匪賊の下っ端さ。悪い官吏を誅して天下を正しく導く――なんて大層なお題目を掲げているが、やっていることはそこいらの悪党と変わらん。殺しもするし略奪もする。儂らにとっちゃ迷惑でしかねえ」

「まあ、天下は乱れておりますからねえ」

紅玲こうれいの連中がろくでもないのは分かりきっているが、あの匪賊も同じくらいにどうしようもねえよ。潰し合って消えてくれりゃ助かるんだがね」


 紅玲の官吏が聞いたら激怒しそうなことを平然と述べる老爺。

 この一年間で思い知ったが、草莽そうもうの人々はおおむね紅玲に対して辛辣な物言いをする。徳が失われつつあるのは確実で、雪蓮が直接手を下さずとも滅びる可能性は高かった。しかしそれでは意味がない――自らの手で打ち倒してこそ復讐は完遂されるのだ。


「あの男は何という組織の人間ですか」

「知らんよ。似たような連中は腐るほどいるからね」


 老爺は興味を失くしたのか、手を振りながら去っていった。

 その時、ひらひらと舞う紙片が雪蓮の前に落ちる。

 先ほどの匪賊の男がばらまいていたものらしい。

 何となしに拾えば、粗雑な文字で以下のように綴られているのが分かった。



 紅天已死 黄天當立

 歳在甲子 天下大吉



「あ、これ見たことあります!」


 欧陽冉が興奮したように文字を指差し、


「僕の故郷でも流布されていましたよ。前に見たのは三年くらい前だったでしょうか……確か、本人たちは黄皇党こうこうとうと名乗っていたかと思います」

「何とも大袈裟だな。だいたいこの文章、明らかに『三国志演義』の黄巾賊を擬えているではないか」

「よく見れば細部は違うけどな」


 大意はこうである。



 紅天こうてんすでに死す    火德の王朝の天命は尽きた

 黄天こうてんまさに立つべし  次なる土德の王朝が立とうとしている

 歳は甲子こうしに在りて  時はまさに革命が起こる甲子の歳

 天下てんか大吉だいきち      天下は大いによくなっていくであろう



 後漢王朝の暴政に対して立ち上がった黄巾党のスローガンだ。

 しかし原文とは異なる部分があった。

 本来、最初の一文字は「紅」ではなく「蒼」である。

 蒼天は漢王朝を意味するが、紅天は言うまでもなく紅玲朝を指していた。


 続く「黄天」は火徳である紅玲にかわって土徳の王朝が新たに立つ――ということを示唆している。


 そもそも何故火德だの土德だのが存在するのかと言えば、五行説に基づいているからに他ならない。天下万物には木火土金水といったいわゆる属性が割り振られ、歴代王朝それ自体にも適応された。木は火を生み、火は土を生み、土は金を生み、金は水を生み、水は木を生む――このような五行相生思想によって王朝を捉えているのだ。


 ちなみに歴史上、黄巾党は王朝を立てることなく滅ぶ。しかし結果として後漢は倒れ、魏、晋、北魏へと交代していった。そこから西儀せいぎてい東儀とうぎ白唐はくとう黒楼こくろう蒼襄そうじょうと続いて当代の紅玲へと至る。


 ふと欧陽冉が不思議そうに首を傾げた。


「……あれ? 今年って甲子年でしたっけ?」

「いいや違うぞ。雪蓮殿、光乾こうけん六年の干支は何だったかな?」

「今年は丙戌へいじゅつだ。やつらにとっては正確性よりも知名度のほうが大事なんだろう」


 甲子は十干と十二支の組み合わせの一番初めである。

 ゆえに革命が起きるのに相応しい時とされていた。


 だが、連中はそういう細かい部分を気にしていないようである。

 白話文学が隆盛を極める当節、後漢末期から三国時代を描いた『三国志演義』は民間に絶大な人気を誇っているのだ。


 このビラを考案した人物は、三国志人気にあやかろうと企図したに違いなかった。最終的に鎮圧される匪賊に自らを仮託するのは縁起が悪そうに思われるが、王朝に反旗を翻した張角ちょうかく率いる黄巾党は、紅玲の圧政が続く現代、ある種ヒーロー的な存在として一部で尊崇を集めているという。


 いずれにせよ世も末だ。

 物語の中の悪党が跋扈しているなど冗談ではない。

 その時、黙して立っていた梨玉がにわかに小さな声を発した。


「……私たちで何とかしなくちゃだね」

「梨玉。あんたが考えることじゃないだろ」

「ううん、私は科挙登第を果たして官吏になるんだ。ああいう人たちをこれ以上増やさないために、まずは勉強を頑張らなくちゃだよ」


 その瞳には今まで以上の熱意が宿っているように感じられた。

 雪蓮は少し疑問に思って梨玉のかんばせを見つめる。


「何かあったのか?」


 梨玉は困ったように己の髪をいじりながら、


「うーん……それがねえ。私が科挙に挑戦できるのは今回で最後かも」


 李青龍が驚いて梨玉を振り向いた。


「どういうことだね梨玉殿。生員の身分を獲得した今、科試さえ受け続ければ何度でも郷試に挑戦できるはずだが?」

「昨日、郷里の弟から書簡が来たの。お母さんはおくびにもそんな様子は見せないけど、実家がちょっと家計的に苦しいみたいで。そりゃそうだよね、私も生員になるまでは仕事をしてたんだもん。ここ一年はずっと勉強漬けだったし、働き手が減ったようなもんだから……」


 先ほど梨玉が妙な雰囲気を醸していた理由が分かった。

 金の問題――それは確かに重大だった。


 かつては生員になるだけで給付金を得られたらしいが、現在、生員の頭数が増えすぎたため、そういう制度はなくなっている。貧しい者は上昇する機会を奪われ、富める者だけがさらなる高みへ至る。紅玲の科挙制度は階級格差を生むための仕組みといっても過言ではない。


 欧陽冉が慌てて口を挟んだ。


「で、でも生員になったんですから下級役人にはなれますよね? それに高級官僚の莫友ばくゆうにでもなれば高額のお給金をもらえるとか……」

「うん。だから次に科挙登第できなかったらそうするかも。弟が言うにはあと一、二年が限界みたいだから」

「でも……梨玉さんは天下のために……」

「天下も大事だけど、その前に家族が大事なんだ」


 梨玉は表情を翳らせた。

 らしくない。梨玉には粉骨砕身試験に臨んでもらう必要があった。

 何故ならこの少女は、雪蓮にとって有用な駒だからだ。


「くよくよする必要はない」

「え?」

「今回で最後ということは、今回で合格すればいいだけのことだ。そもそもあんたは落ちるつもりで試験を受けているわけじゃないだろう? 状元になって家族にいい思いをさせてやればいい」


 梨玉が鳩のようにぽかんとする。

 俄然、李青龍が大口を開けて呵々大笑した。


「雪蓮殿の言う通りだ! 今から失敗した時のことを考えても仕方があるまい。あと一回という猶予があるならば、今は科挙登第を果たして義を示すことだけを考えていればいいのだ! さあ梨玉殿、家族のことは心配であろうが、なればこそ状元となる野望を捨ててはいけないぞ!」

「そうです梨玉さん、こんな紙が出回る世の中なんて間違ってますよ。一緒に変えてやりましょう」


 仲間たちの激励を受けた梨玉は、一瞬、呆気に取られて固まった。

 しかしすぐにその双眸は輝きを取り戻し、花のような笑顔が浮かび上がった。


「うん! ありがとうみんな、今は科挙登第を目指して頑張るよ!」

「それでこそ梨玉殿だ! 我々の前途は明るいぞ!」

「まあ、全員合格できるかは分からないけどな」

「もー小雪! そういうこと言っちゃ駄目だよ! 私たちは四人そろって状元になるんだから!」

「梨玉さん、状元は成績第一等の一人だけですよ……?」

「それくらいの意気込みで頑張ろうってこと! やっぱり私は紅玲を変えてあげたいからね、こんなところで躓いてるわけにはいかないよ」


 梨玉はすっかり元気になってしまったようだ。

 ふと院試の際、おう視遠しえんに忠告されたことが反芻される。



 ――ではせめて信を大切に。窮地を助けてくれるのは、いつだって朋友なのですから。



 はたしてあの言葉は真実なのだろうか。

 これまで朋友に恵まれなかった雪蓮に真偽のほどは分からない。

 確かめるためには、梨玉たちといま少し行動を共にしなければならなかった。


「よーし、では景気づけに夕餉をいただこうじゃないか。今日は科試合格を祈願して支払いは私が持つとしよう」


 ちなみに年長者が奢るのは一種のマナーである。

 この場で李青龍が支払いを申し出るのは不自然なことではない。

 梨玉が目を輝かせて飛び跳ねた。


「わあ、ありがとう青龍さん! よかったね、小雪!」

「とても楽しみだ。遠慮なくいただくとしよう」


 李青龍が横目で睨んでくる。


「……雪蓮殿、加減はしてくれたまえよ?」

「善処する。善処できる場合はな」

「善処する気がないではないか」

「そんなことはない。僕にだって良識はあるんだ」

「信じているからな? 私の財布にも限度はあるんだからな?」

「雪蓮さんの食べっぷりが楽しみです!」

「焚きつけるな冉殿!」



          □



 結局、雪蓮は李青龍の財布を食い尽くす勢いで料理を注文した。

 本人が払うと言ったのだから遠慮する必要はない。金は金持ちから引き出すべきなのである。


 そして後日、県学から科試の結果発表が行われた。

 雪蓮、梨玉、李青龍、欧陽冉の四人はめでたく優等の成績をつけられ、試験地獄の本番――郷試へと進むことになったのである。

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