第39話 辞令

 郷試きょうしが行われるのは通常、三年に一回のペースである。

 ただし朝廷に吉事があった際には、特例として回数が増やされることになっていた。今年は皇太子・海明かいめいの婚姻があったため、該当年ではないが恩科おんかとして郷試が実施されるのである(中身は普通の郷試と変わらない)。


 紅玲こうれいちょうでは先代炎鳳えんほう帝まで二回の恩科が行われたが、今上光乾こうけん帝に代替わりしてからというもの、在位六年目にして早くも二回目の恩科である。光乾帝の人材道楽には類を見ない熱意があると囁かれていた。可能な限り試験を増やすことで野の遺賢を取りこぼさぬようにという魂胆らしい。


 いずれにせよ受験生である挙子にはこの上ない朗報である。

 しかし、運営する官吏には悩みの種以外の何物でもなかった。


唐州とうしゅう省ね。去年よりは随分マシだが……」


 辞令を見下ろした瞬間、春元しゅんげんは吐息を漏らしてしまった。

 京師天陽府てんようふ、紅玲国の総本山たる宮廷平楽城へいらくじょうの一室。


 礼部尚書れいぶしょうしょ(教育などを司る官庁のトップ)を含めたお歴々に招集された官吏たちは、自らの赴任地が書かれた紙を渡されることになった。


 周囲を見渡してみれば、胸を撫で下ろす者、露骨に眉をひそめる者、無感動に辞令を見つめる者――その挙措から赴任地が読み取れるようである。


 彼らに共通する思いはただ一つ。


(面倒ごとはなるべく避けたい。当たり前のことだ……)


 その瞬間、礼部尚書が大きな咳払いをした。

 呉春元を含めた官吏たちは、慌てて居住まいを正す。


「改めて付け加えておくが、諸君は郷試の正考官せいこうかん副考官ふくこうかんとして重大な責任を背負っている。皇帝陛下のため、紅玲のため、在野から臥竜鳳雛がりょうほうすうを発掘することは、決してゆるがせにできない大仕事なのだ。そのことをゆめゆめ忘れず任に就いてもらいたい。それでは諸君、迅速に支度をして三日以内に出立するように」


 大袈裟に語る礼部尚書。

 神妙な顔つきで傾聴する官吏たち。

 呉春元も右に倣えで真面目そうに姿勢を正していたが、その内心は、


(うるせえばーか! やってられるか!)


 に尽きた。


 正考官・副考考というのは、郷試の試験官のことである。

 現在この場に集められた者たちは、地方の試験会場に派遣される中央官僚なのだった。そして呉春元に下された命令は、正考官として唐州省で郷試の答案審査にあたること。唐州省といえば京師天陽府から十日程度の距離だ。前回は閔州びんしゅうという南の僻地に飛ばされ、往復で二百日もかかる阿呆のような大旅行をさせられた。それと比べればはるかに温情があるが、何日もかけて地方に赴くこと自体が面倒くさい。


 ちなみに今年の閔州担当は、呉春元の同僚であるおう視遠しえんという男になった。数か月前、相変わらず涼しい顔をしながら南方へと旅立っていったらしい。この時期の閔州は蒸し暑くて敵わないから、やつの顔面は今頃汗まみれに違いない。

 閑話休題。


(ああー……働きたくねえ……)


 呉春元は元来、仕事よりもプライベートを優先する気質である。

 今の紅玲に特有の腐りきった官吏とはまた違う。必要ならば官吏の特権を振りかざすこともあるが、薄禄でいいから休暇と安寧が欲しい――そういう自堕落な思想を軸として生きているのが呉春元という男だった。


 そもそも呉春元は自分の望みで科挙登第を果たしたわけではない。

 親に言われるまま童試を受けた結果、神が降臨したのか仏が微笑んでいたのか、嘘のようにヤマカンが当たりまくって県学に入学した。続く郷試と会試では、隣の部屋で死にかけていた老人から「老い先短い儂のかわりに合格してくれぇ!」と渾身の答案用紙を見せてもらって合格。ちなみに郷試と会試、それぞれ別の老人である。そんな偶然あるのか。


 さらに最後の殿試でんしでは試験の直前、宮中で迷子になっていた皇太子の娘を偶然助けたことで皇帝(当時の炎鳳帝)に顔を覚えられ、成績が壊滅的であったにも拘わらず状元での登第を果たした。


 運とコネによって成り上がった男――それが呉春元。

 もし耿梨玉のような義の人が見れば、眉をひそめるに違いなかった。


 官吏としてのプライドは欠片もない。

 そのかわりに他者を蹴落として上昇しようという野心もない。

 呉春元が切に望んでいるのは、衣食住に困らない程度の平凡な日々である。


 ゆえに郷試の正考官など冗談ではなかった。

 移動の面倒もそうだが、試験問題を作るのも億劫の極みである。

 四書五経の素養がない呉春元には郷試に相応しい問題が分からなかった。

 考えなしに文章を綴れば面倒ごとに発展するのは目に見えている。

 だから呉春元は部下を頼ることにした。

 郷里の時から(何故か)付き従ってくれる弟、冬元とうげんである。


「……なあ冬元、問題はちゃんとできたよね?」

「もちろんですお兄様」


 密かに問えば、隣に控えていた冬元は満面の笑みで頷いた。

 左目を閉じたまま開かないのは、幼い頃野盗に襲われ傷を負ったためだ。それでも並の士大夫では歯が立たないほどの俊英だった。容姿端麗、才気煥発、弁舌も鮮麗――枯れ木のようだと囁かれる兄とは正反対である。


 昔から呉春元に付き従ってよく支え、同じ年の殿試に受かって科挙登第を果たした。以後も翰林院の一員として職場を共にし、郷試においても副考官として同行することになっている。

 呉春元はほっと溜息を吐いて笑った。


「よかった。お前の作ならば安心だな」

「いえいえ! 私なんかが作ってよかったのか不安ですよ。お兄様の作と比べたら私の問題なんて呑み屋の落書きと同じですから」

「そんなことはないだろ。謙遜しすぎだ」

「これは謙遜でも何でもありません、厳然たる事実ですよ。……お兄様、前々から思っていたのですが、どうして力をお隠しになるのですか? お兄様は状元ですよ、状元。ちょっと本気を出せば内閣大学士になって国政を牛耳ることだって容易いはずなのに……」

「俺にそんな実力はねえよ」

「それこそご謙遜を!」

「だから謙遜じゃないって」

「なるほど承知いたしました、今は雌伏の一時ということですね。いずれお兄様が動き出す瞬間のために、私も爪を研いでおきましょう」

「…………」


 星のように光る右目で見据えられ、呉春元はちょっと気後れした。

 冬元は昔から兄に対して的外れな尊敬を抱いている節がある。賢いのだか鈍いのだかよく分からない子だ。同じ家で育ったのだから兄がろくでもない事なかれ主義であることは自ずと分かるはずであろうに。


 さておき試験問題の不安は解消された。

 後は万事何事もなく進んでくれることを祈るだけだ。


 ほどなくして解散が告げられ、官吏たちは慌ただしく散っていった。

 今から出発の準備をしなければ郷試の日程に間に合わないのだ。

 呉春元も同じように退室しようとしたが、直前で礼部尚書に引き留められてしまった。


「唐州省担当には特別に連絡がある」


 嫌な予感しかしなかったが、無視するわけにもいかない。

 他の官吏たちが辞去するのを見届けてから礼部尚書が口を開く。


「唐州省は近頃匪賊の活動が活発になっている。中には人材登用の要である科挙を潰そうという動きもあるらしい。少々危険が伴うかもしれないが、へこたれることなく郷試を遂行するように」

「はい」


 最悪である。「いいえ」と返事をしてやりたかった。

 今すぐ正考官なんて辞めて引きこもりたい。


「それともう一つあるのだが」


 礼部尚書は慎重に言葉を選んで告げた。


「紅玲は今上の世になってから科挙制度改革に力を入れている。試験官たる学政や正考官にはこれまでになかった特別な権限が与えられ、自由な裁量で人材を確保できるようになった」

「はあ」

しこうして此度、唐州省の郷試においてはさらなる一歩を踏み出すために特別な措置がとられることと決定されている」


 万事につけ特殊だの例外だのという前置きは厄介ごとの前触れ以外の何物でもない。

 はたして礼部尚書はとんでもない爆弾を放り投げてきた。


「すなわちだな。唐州省では二人の正考官で審査してもらいたい」

「二人……? 私以外にも正考官がいるのですか?」

「前例は数えるほどしかないが、栄明えいめい長公主ちょうこうしゅ琳英りんえい様たってのご希望である。ゆえに形式上、貴君は正考官ではあるが栄明長公主の随従として唐州省に赴くのだ。答案審査の仕事はもちろん、長公主の補佐もしてもらいたい」

「は……?」


 呉春元は幻聴かと思って硬直した。隣で話を聞いていた冬元も右目を丸くして呆気に取られている。


「ま、待ってください。そんな話は聞いておりませんが……」

「だから今伝えておるのだろうが。周知のことだが栄明長公主は陛下のご意思を汲み、科挙改革に身を削っておられる。ならば全身全霊その補佐をするのが百官の役目というものだ。呉春元よ、これは大変な栄誉であるぞ」


 絶望のあまり二の句も継げずにいた時――

 部屋の扉が勢いよく開かれた。

 晩夏の涼やかな風とともに運ばれてきたのは、馥郁たるお香の香りである。


 引っ張られる思いで振り返った瞬間、目を疑うほど華やかな女性が視界に映り込んだ。幾人もの護衛を引き連れ、光る眼差しを室内へと向ける。


「急に訪ねてしまってごめんなさい。私を助けてくださる正考官はどなたに決まりましたか?」

「こ、これは栄明長公主殿下……!」


 礼部尚書が泡を食って拱手した。

 呉春元も半自動的に礼をとりながら、呆然とその人の立ち姿を見つめた。


 皇族らしく豪華絢爛な衣に身を包み、結われた髪には金糸の髪飾りを載せている。たおやかな顔立ちではあるが、妙に力の籠もった瞳にはなるほど先代皇帝の娘に違いないと思わせる迫力が宿っていた。


 栄明長公主、夏琳英――すなわち今上皇帝の妹である。

 本来、紅玲の姫君は後宮に閉じこもって浮世離れした遊びに興じるものだ。しかしこの夏琳英という人物は炎鳳帝譲りの豪放さを備え、女性でありながら兄である今上皇帝の輔弼を積極的に行っていた。近頃はもっぱら科挙に熱を入れ、そのルールを改良しようと躍起になっているらしい。実務を担当する官吏にとっては迷惑極まりない話である。

 栄明長公主はちらと呉春元に視線をやった。


「あら、この方が……」

「その通りでございます。姓は呉、名は春元、字は達郎たつろう、炎鳳三十年の状元。十七歳という若さで科挙に受かった才子ですから、必ずや長公主様の助けとなりましょう」


 礼部尚書が勝手にべらべらと解説してくれた。

 栄明長公主は感心したように笑い、


「それは頼もしいですね。呉春元、よろしくお願いします」

「は。ご期待に沿えるよう鋭意努力いたします」


 殊勝に頭を下げたものの、内心は荒天の海のごとく死にかけている。

 明らかに貧乏くじだった。


 何故礼部尚書はこんな大役を呉春元に押し付けるのか――その理由は単純、呉春元が上からの命令には唯々諾々と従うタイプの人間だからである。下手に反抗して諍いを起こしたくはない。


 ゆえに呉春元は将来を嘱望される官吏でありながら威張った様子を見せない貴公子として人気だった。まったく本人の意図していない評価である。


「――呉春元、状元のあなたなら身に染みて分かっているでしょうが、天下を安んずる元は人材なのですよ。現行の科挙制度もそれなりに機能していますが、より優れた方法で人を確保しなければなりません」

「はい」

「だから私はこの目で確かめたいのです。改善点はどこに眠っているのか、あえて残すべき部分はどこなのか、そして未来ある挙子たちの様子はどうなのか――これらを肌で感じてこそ改革は進むはずですよね?」


 知ったことではない。

 しかし一介の官吏には頷くことしかできない。


「長公主殿下の仰せの通りに」

「よろしい。では頑張りましょうね、呉春元」


 華やかな微笑みを向けられ、呉春元は身震いをした。

 未来を見なくとも分かってしまった。

 今回の郷試は、確実に厄介なことになる。

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