第40話 龍旗
八月初旬、
人口約四万人を誇るこの都城は、かつて県試・院試を受けた県城・府城よりもはるかに巨大である。往来はぎっしりと人であふれ、各々が何かに追い立てられるがごとく急いでいた。立っているだけで人並みに攫われ危うく店頭しそうになる。
無論、混雑を毛嫌いする雪蓮には地獄のような空間だった。
「これは駄目かもしれん……故郷に引き返そう……」
「
「もちろんそうだ。でもちょっと吐きそうで……」
「うわあ、もう少し我慢して!
「あちらに店があるな。いったん移動しようか」
「雪蓮さん、大丈夫ですか? 肩を貸しますよ」
人込みには嫌な思い出があるのだ。
大昔、叔父の軍勢に邸宅を焼かれた際、数多の人間が雪蓮の周りを忙しなく行き交っていた。その際の人いきれが思い起こされ、如何ともしがたい吐き気に襲われるのだった。もちろん梨玉たちにその詳細を教えることはできないが。
茶屋に駆け込んで椅子に座った雪蓮は、出された水を飲んで一息を吐いた。
「……最悪だな。やる気が根こそぎ奪われてしまった」
「小雪って強いのに打たれ弱いよねえ? いいところのお嬢様だったりするの?」
「梨玉さん、それを言うならいいところのご令息が正しいんじゃないでしょうか……?」
「おっと間違えた! 小雪は男の子だもんね……!」
そういう妙な訂正の仕方も誤解を招く一因になるのでやめてほしい。
欧陽冉と李青龍には雪蓮が女子であることを明かしていないのだ。
今後明かす予定も無論ない。
李青龍が水を口に含んでから言った。
「……しかしまあ、雲景府は思った以上に賑わっているな。雪蓮殿が参ってしまうのも仕方がないぞ」
「郷試のおかげですね。挙子たちがたくさん来るので商売人たちも気合を入れているんですよ。あちこちで美味しそうな屋台が出ていましたし」
「後で食べ歩きしようよ!」
「いいですね。貢院に持ち込む食料も買い込みましょう」
梨玉と欧陽冉は楽しそうに笑っている。
一方、李青龍は不審そうに辺りの様子を観察していた。
「どうしたんだ? 何か変なものでも見つけたか?」
「いや……賑わっている理由が郷試だけとは思えなくてね。それ以外にも何かあるような気がするのだが」
彼の視線が止まったのは、窓の外――軒を連ねる家屋の屋根あたりに掲揚されている旗だった。
宮廷にいた頃は腐るほど見かけたものだが、地方の首府でもああやって掲げるものなのだろうか。
(まあいい)
些事は考えないことにした。
吐き気も落ち着いてきたので何か腹に入れたい。
壁に貼られたメニューを見つめながら何を食べようかと思考する。
李青龍が背凭れに寄りかかって嘆息した。
「……まあ、郷試が始まってしまえば表の賑わいなど関係ないか。我々はこれから二週間弱、小さな独房に押し込められて問題を解くのだ。俗世の喧騒と離れ、孤独に包まれながら答案用紙と向き合う――いよいよ科挙本番といった趣があるな」
「そういえば青龍さん、郷試ってどんな試験なの?」
梨玉が訪ねる。李青龍はよくぞ聞いてくれたと笑みを深め、
「今のところ院試のように変則的な方式を採用するという情報はないな。だが油断はしないほうがいい、科挙にはどんな魔物が潜んでいるかも分からない」
「あの、私はそもそも普通の郷試がどんな試験なのかよく分かってないんだけど……」
雪蓮は呆れた。
「あんた、それを知らずここまで乗り込んでくるとは豪胆だな……すみませーん、包子の盛り合わせを一皿ください」
「おい雪蓮殿、もう奢らんからな」
「自分で払うからいい。奢ってもらう予定なら一皿ではなく三皿は注文していた」
「何なのだその胃袋は! 呆れを通り越して尊敬の念すら覚えるぞ」
まさに欧陽冉が尊敬の眼差しを向けてくる。
「僕もたくさん食べたら雪蓮さんみたいに強くなれるでしょうか……?」
「冉殿、真似はしなくていい。この御仁は盲亀浮木のような奇跡だからな――いやそんなことより郷試の話だ。梨玉殿、郷試についてはどこまで理解しているかね?」
「長い時間試験会場に閉じこもって問題を解くんだよね? あ、さすがにどんな問題が出るかは知ってるよ? 四書題、五経題、詩題、策題とかでしょ?」
「その通りだな。具体的には――」
李青龍は以下のような説明をしてくれた。
郷試とは科挙本試験の第一関門。各省の首府に存在する
「だが難易度はこれまでの試験とは比べものにならん。あまりの難しさに貢院の独房で発狂し、係員に運び出される者も毎回出るという話だ」
「そ、それはちょっと大変そうだね……」
「ちなみに今年の試験官はどんな人なんですか……?」
「此度の正考官を担当するのは、
「ひええ……」
梨玉と欧陽冉は真っ青になって震えていた。
呉春元――その名前は天陽府にいた頃に聞いたことがあった。炎鳳帝に気に入られ、若くして朝廷の重職を担っている俊邁である。皇帝が代替わりした今でも名声は轟いているらしい。
「お待ちどおさま。こちら包子だよ」
店員が訪れ、芳しい香りとともに皿を運んできた。
ほかほかと湯気を立てる包子は、見ているだけで腹の虫が鳴るようだ。雪蓮はさっそく箸を手にとって一つの包子をつまんだ。すると店員の老婦が感心したように雪蓮や李青龍の顔を見つめ、
「あんたら
李青龍が笑って答えた。
「はい。これから郷試を受けようと思っております」
「やっぱりそうだったのかい。道理で立派なご一行だと思ったよ」
「いやいや大したことはございません。我々はまだ何も成し遂げていませんからね、褒め言葉は殿試を合格するまでとっておいてください――さておき佳人、お尋ねしたいことがあるのですが」
「何だい」
「あそこに掲げられているのは
雪蓮は包子を咀嚼しながら李青龍が示したほうを見上げる。
窓の外にはためくのは、紅玲朝のシンボルマークである。
先ほどは吐き気で参っていたので気づけなかったが、李青龍曰く何本も掲げられていたらしい。
「まさか。あれは特別なんだよ」
「郷試が開かれるからでしょうか」
老婦は首を横に振った。
「郷試に
箸が止まった。
浮ついていた思考が急速に冷凍されていく。
長公主という称号は、通例として今上皇帝の姉妹に与えられるものだ。
雪蓮は自らの伯母、叔母たちの顔を思い浮かべていく。成人した炎鳳帝の娘は五人いたはずだ。そのほとんどは享楽しか頭にないろくでなしだが――
「――長公主様!? 皇族の人が来てるんですか!?」
梨玉が興奮して立ち上がった。
老婦は困ったように首を傾げる。
「ああ、お越しになっているとも。郷試の試験官をするという噂だが、挙子様、何か聞いてはおらんかえ?」
「あれ? 正考官は呉春元っていう人じゃないの? ねえ青龍さん」
「そうだと聞いている。そもそも長公主が郷試を監督するなんて聞いたこともない。何かの間違いだと思うのだが……」
雪蓮は黙してひたすらに思考を巡らせた。
可能性があるとすれば、長公主の中でも特異な性質を持つ例の人物が動きを見せたということ。
(まさかな……)
記憶の底から苦みを含んだものが染み出してきた。
もし老婦の言が真実であるならば、此度の郷試は雪蓮にとり非常に特殊な意味を持つことになる。あの人か否かはさておき、どの長公主であったとしても雪蓮とは顔見知りということになる。下手をすれば正体を見抜かれる危険性もあるのだ。
「――まあ、よく分からんが、頑張って合格してほしいね。挙人様が立ち寄った店と宣伝すりゃあ、客の入りもよくなるだろうし」
老婦はちゃっかりと笑った。
ちなみに郷試に合格した挙子のことを挙人と呼ぶ。挙人は様々な艱難辛苦を乗り越えた傑物として人から称揚され、様々な特権を得ることもできるのだ。
不意に梨玉が大声で宣言した。
「もちろん、私たちは必ず合格するよ! 進士になったらまたこのお店に来るからね、その時まで待っていてよ!」
「はあ? あんたが受けるわけじゃなかろうに」
梨玉がずるっと転びそうになった。
老婦の言は当然である。
梨玉の見た目は明らかに女性なのだ。
「わ、私は男だよ! ちゃんと科試に合格した挙子なんだかんね!」
「世迷言をほざきなさんな。あんた、挙子様が合格できるようにきちんと支えるんだよ。特にそっちの立端がある子、いかにも受かりそうな顔をしているからね」
「ははは。そう言ってもらえて光栄ですな」
「ええー……」
笑う李青龍、釈然としない梨玉――二人を置き去りにして老婦は厨房のほうへと引っ込んでいった。雪蓮は今のやり取りを反芻しながら再び包子を口に運ぶ。
試験官として現れた長公主の対処。
そして性別がばれバレないようにする方法。
今回の試験も単に問題を解けばいいわけではないようだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます