第41話 入場

 特設の受付所で手続きを済ませた後、宿にこもってしばらく勉強に勤しんだ。

 できることなら貢院こういんに忍び込んで長公主ちょうこうしゅの顔を拝んでやりたかったが、警備が厳重なので不可能だった。しばらく梨玉りぎょく青龍せいりゅう欧陽おうようぜんとともに最後の詰め込みを行うことになる。


 そして翌日の朝、まだ暗いうちに挙子きょし入場の時が到来した。

 貢院の大門に到着した途端、涼やかな夜風を吹き飛ばすほどの熱気があらわになった。開門を今か今かと待ち構えているのは、二泊三日のための荷物を携えた挙子の群れ。今回の受験者はおよそ一万八千人、雲霞のごとく人が道を埋め尽くすのも当然であった。


 挙子たちは固唾を呑んで開門を待っている。中には四書五経の文句をつぶやく者、勉強の仕上げとして豆本に目を走らせる者、始まる前から発狂したのか奇声をあげる者――よりどりみどりだ。彼らの緊張感が伝播し、張り詰めた空気がひりひりと肌を焼いていく。


 人いきれは不得手だが、不思議とこの喧騒は苦ではなかった。

 人々の意識は統一され、果てしなく澄んでいるからに違いない。


浪高ろうこう県はこっちだ! はやく並べ!」


 係員が声を張り上げて挙子たちを誘導していた。

 同郷ごとにまとめて入場させるという方式である。同じ県学の出である雪蓮、梨玉、欧陽冉、李青龍も一まとまりに整列させられることになった。

 梨玉は周囲の挙子たちを見、消え入りそうな吐息を漏らす。


「き、緊張してきた……小雪こゆきは大丈夫?」

「僕は問題ない。いつも通りに問題を解くだけだ」

「小雪ったら何でそんなに余裕なの? 私にもその胆力分けてよぉ!」

「ひっついてくるな、鬱陶しい……!」


 梨玉は「胆力胆力」言いながら絡みついてくる。

 不安のあまりテンションがおかしくなっているようだが、派手な行動は控えてほしかった。

 隣に立っていた欧陽冉が眉をひそめ、


「人、多いですね……どれくらい合格するんでしょうか……」

「倍率は六十倍程度だそうだ。この郷試を通過できるのは三百人が限度だろうな」


 これを聞いた梨玉が飛び上がる。


「さ、三百人!? そんなの残れる気がしないんだけど……!?」

「まあまあ梨玉殿、慌てても仕方あるまい。郷試などは科挙試験の第一関門にすぎないのだからね。これに臆しているようでは到底状元などなれまい」

「そうだけどぉ!」

「ほら冉殿、きみも何か言ってやれ」

「えっと……梨玉さん、今から焦る必要はないですよ。今日はまるまる一日かけての入場だって聞いています。実際に試験が始まるのは明朝からなので、今は平常心でいることが大事だと思います。平常心平常心……」

「冉くん、顔真っ青だけど大丈夫?」


 梨玉はもちろん欧陽冉も郷試のプレッシャーに参っているようだ。

 李青龍を含めたこの三人は雪蓮が科挙登第を果たすための手駒。郷試程度で躓いてもらっては困るのだ。

 雪蓮は他の挙子に聞こえぬよう声を潜めて言った。


「……欧陽冉、試験中に何か困ったことがあれば言え」

「えっ……?」

「二泊三日の間、挙子同士の接触が禁止されているわけではない。どうしても分からぬ問題があれば、お互いに助け合うこともできるはずだ」

「でもそれって不正なんじゃ」

「不正にならない程度にすればいい。少しばかり助言を与え合う程度は問題ないはずだ。僕たちは同じ丙三へいさん組として切磋琢磨した仲――ここで誰かが欠けるのは本意ではないからな」


 これを聞いていた梨玉と李青龍は、喜色満面、突然雪蓮の肩を叩いてきた。


「さすが雪蓮殿だ! やはり仲間というものはこうでなくてはな!」

「小雪が私たちのことを思ってくれていて嬉しいよ! 一緒に頑張ろうね!」

「やかましい。言っておくがこれは褒められた行為じゃないんだよ。胥吏どもに咎められる危険性と秤にかければ、どん詰まりに陥った際の最終手段といったところだ」

「でも信は大事だかんね、助け合わなくちゃ!」

「よかったな冉殿、これで恐れることは何もないぞ」

「は、はい……!」


 欧陽冉は頬を赤らめて雪蓮の手を握ってきた。

 感涙に濡れた瞳に見上げられ、一瞬ドギマギとしてしまった。


「ありがとうございます雪蓮さん。おかげで気持ちが楽になりました」

「別にあんたのためを思って言ったわけではない。知己が実力を発揮できぬまま不合格になったら寝覚めが悪いというだけの話だ」

「雪蓮殿は照れ隠しが下手だな」

「黙れ青龍」

「小雪ったら可愛い!」

「あんたはもっと黙れ」

「いずれにせよ士気は十分というわけだ。郷試ごとき我々の結束力で叩き伏せてやろうではないか!」

「うん! きっと合格できるよ!」


 梨玉が笑みを浮かべて声をあげた瞬間、耳をつんざく号砲の音が聞こえた。

 挙子入場の時を知らせる合図である。それに呼応して大門がゆっくりと開かれ、挙子たちがぞろぞろと貢院の内部へ足を踏み入れていった。


(ついに開幕か……)


 雪蓮はそこでふと思いついた。

 李青龍に確認しておきたいことがあったのだ。


「……あんた、盗人の才能があったよな」

「おや? どこでそんな情報を仕入れたんだ?」

「県試や院試で暗躍していただろ。だから聞いておきたいんだが、あんたの目から見て貢院はどうだ? 外から侵入できそうか?」

「それは不可能だな」


 李青龍はきっぱりと言った。


「周囲は高い塀に囲まれているうえに見張りの数も尋常ではない。秘密の抜け道でもあれば話は別だが、省庁の役人が郷試に備えて修繕しているはずだ。侵入しようと思ったら通常のやり方は使えないな」

「通常ではないやり方は?」

「いったい何故そんなことを聞くんだね?」


 面白がるような視線を向けられた。

 雪蓮は涼しい顔で歩を進める。


「……何でもない。念のため確認しておいただけだ」

「まあ、個人で侵入するのは無理だろうね。何か不都合でもあったかい」

「いいや。むしろ安心したよ――心置きなく問題に取り組むことができる」

「そうでなくてはな」


 周囲の挙子たちが動き始めた。

 どうやら入場の順番が回ってきたらしい。


 かくして雪蓮は新たなる試験地獄に身を投じることになるのだった――が、男装女子が身分を隠したまま易々突破できるほど科挙は甘くない。


 入場した途端、毎回恒例のあのイベントが襲いかかったのである。

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