第42話 検分

「女が何故ここにいるんだ」


 郷試は科挙の本試験であるため、入学試験にすぎない県試や院試よりもはるかに厳重なチェック体制が敷かれていた。


 持ち込んだ荷物の検分はもちろん、執拗に身体を叩いてカンニング用の本などが隠されていないかを確認するのだ。


「私は男だって! ここにそう書いてあるでしょ?」


 そう言って梨玉りぎょくは虎の巻、戸籍台帳の写しを見せびらかす。

 しかし身体検査を担当する兵卒は、困惑しつつもそれを突き返した。


「別人のものではないか? あるいは偽装をしていることも否定できん。貴様は誰がどの角度から見ても女だからな」

「じゃあこれならどう? 受付所でもらった預かり証」

「受付所の連中が勘違いしたのではないか」

「じゃあこれ! 県学の科試に合格した証!」

「いやまあ、書類的証拠は揃っているが……何なんだこいつは……」


 兵卒たちはむしろ呆れた様子で顔を見合わせた。

 ちなみに雪蓮、欧陽冉、李青龍はすでに身体検査を通過していた。

 無遠慮に身体を撫でられて気分が悪かったが、何とか正体を隠し通すことはできたので一安心である。


 しかし梨玉はそうはいかなかった。

 無謀にも女の恰好のまま郷試に挑まんとしているからだ。

 せめて髪型だけでも変えればよかったのに。

 雪蓮は肩を潜め、隣にいた欧陽冉に耳打ちをした。


「……あれを貸してくれないか」

「あれ? あれってまさか……」

「そうだ。疑いを晴らすにはあれしかない」


 欧陽冉はしばし逡巡したが、顔を赤くして例の小壺を取り出した。

 雪蓮はそれを受け取ってから梨玉のほうへ近づいていった。

 係員との口論は続いている。

 これ以上注目を集めるのは避けたかった。


「そいつは女ではありません。僕が保証しますよ」

「小雪……!」

「なんだ、こいつの知り合いか?」

「はい。同じ県学で学んでいた者です」


 兵卒たちの疑うような視線、梨玉の救いを期待するような視線。

 その二種類を受け止めつつ、いかに誤魔化すか思索を巡らせる。

 小壺を使うのは最終手段だ。できれば言葉で乗り越えたいところだった。


「この身体検査は不正がないかを確認するためのものですよね。ここで性別を追及する必要はないように思われますが」

「しかしどう見ても女だしな……」

「郷試を受ける資格があるか否かの審査はすでに終わっています。首府の受付でもらった預かり証、科試の合格証書、戸籍台帳の写し――これ以上の証拠がどこにあるというのですか。確かに女性のような見た目ですが、個性の範疇を出ませんよ」

「そうだそうだ! 個性だ!」

「その通りだ! 梨玉殿は孔子もびっくりの孝行息子なのだぞ!」


 李青龍もよく分からない援護をしてくれた。

 兵卒たちは困惑した様子で顔を見合わせる。

 これまでの係員と違って強硬な態度を見せる様子がない。


(押し通せるかもしれない……)


 そう考えて駄目押しの言葉を連ねようとしたのだが、


「我々では判断がつかん。この場で裸にするわけにもいかぬし、事務局長に相談するしかあるまい」

「事務局長……?」

「ついてこい。荷物も持ってくること」

「待ってください」


 梨玉が連行されんとする直前、雪蓮は一歩前に出て声をあげた。


「僕も連れていってくれませんか」

「はあ? 何故貴様が」

「その者は細かく事情を話すことに長けておりません。僕が付き添いとして同行しなければ、身の潔白を上手く証明することもできませんので」


 兵卒は顔をしかめたが、結局雪蓮の要望を聞き入れてくれた。

 李青龍と欧陽冉に目で「大丈夫だ」と伝えてからその場を後にした。いざとなったら欧陽冉の小壺を使えばいいだけの話である。


 それよりも重要なのは――郷試の責任者の顔を拝めるかもしれないという点。

 雪蓮にとっては、敵の情勢を探るためのまたとない機会だったのである。



          □



 その後、事務室に連行されて局長だの監臨官かんりんかん(試験事務を行う責任者)だのの意見を仰ぐことになったが、なにぶん前例がないことなので判断不能らしい。


 そこで答案審査を担当する内簾官ないれんかん(答案審査を担当する官吏)に連絡し、正考官の判断を待つことになったのだが――なんと「見なければ分からない」とのことで梨玉のもとへ来臨する意向を告げてきた。

 これを聞いた監臨官は恐縮しきって冷や汗を垂らし、


「否、否、我々のほうから出向けばよいものを! 何故長公主様を呼び出すような真似をしたのだ!」

「それが是非ともご臨視したいとの旨をいただいておりまして」

「我々にはどうすることもできず……」


 事務担当者は慌ただしく室内を行き交っている。

 梨玉は無知な鳩のように周囲を見渡していたが、雪蓮は鼓膜を震わせた一つの単語に思考を破壊されていた。


 長公主――確かに監臨官はそう言った。

 しかもこの場を訪れるご意向とは驚きである。


 外簾官がいれんかんの話しぶりから情報を探るつもりでいたのに、正考官本人と顔を合わせることになるとは――想定外も甚だしかった。通常、答案審査を担当する官吏は挙子との接触を避けるため、奥の屋敷から出てこないはずなのだが。


「……ねえ小雪、やっぱり長公主様が正考官なのかな?」

「そのようだな。李青龍の調査は間違っていたのかもしれない」

「じゃあ、長公主様にお会いできるってことだね! 楽しみだなあ――って小雪どうしたの? なんかすっごく怖い顔してない?」

「気のせいだろ」


 梨玉に指摘され、雪蓮は意図的に心を落ち着けていった。

 あの惨劇から約七年も経っているのだ。身体的な成長はもちろん、完璧な男装で身分を隠している。相手がどの長公主であっても見抜かれる心配はないはずだった。

 不意に一人の兵卒が大声とともに転がり込んできた。


「お越しになりました! 長公主殿下と正考官・春元しゅんげん様がすぐそこまで……!」


 監臨官が大慌てで出迎える準備をした。

 雪蓮も注意深く入口のほうへと視線を向ける。

 鼓動が高鳴る。

 復讐するべき紅玲の皇族がすぐそこにいる。

 だが今は気持ちを抑え、堪えなければならなかった。


(正体を見破られないこと。何があっても男のフリをすること。どんな理不尽があっても泣かないこと――)


 呪文のように内心で唱え続ける。

 やがて大勢の足音が聞こえ、兵卒に護衛されながら一人の女性が姿を現した。


「さあ、どの方かしら? 女のような恰好をした挙子っていうのは」


 ふんわりとした声が鼓膜を震わせた。

 それは馬鹿のように華やかな御仁だった。精緻な刺繍が施された襦裙じゅくんを身にまとい、頭には高貴な身分であることを示すかんざしを挿している。柔らかだが自身に満ちあふれた微笑が室内をねめ、雪蓮は一瞬心臓が止まるような思いに陥った。


栄明えいめい長公主、琳英りんえい……)


 記憶の棘が頭をちくちくと刺した。

 忘れるはずがない。

 この女は雪蓮の叔父、光乾こうけん鐘世しょうせいの懐刀として宮廷を支配している女傑である。七年前の政変でも夏鐘世の側に立ちサポートをしていたという話だった。ゆえに必ず鉄槌を下してやらねばならなかった。


 天女のように優美な笑顔を見、雪蓮は胸を悪くした。


(理解できない……)


 昔から底の見えない女だった。

 こいつは何を思ってこんな場所に来たというのか。

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