第43話 仇敵

こう梨玉りぎょくさんですか。今回応試する挙子きょしですよね?」

「は、はい。長公主ちょうこうしゅ様にお目通りかなって恐悦至極です……」

「そんなに畏まらなくてもいいわ。栄明長公主なんていう大層な称号をいただいておりますが、心や性分といったものは民草とまったく変わりがないもの」


 琳英りんえいは急に砕けた口調になって笑いかけた。

 現在、室内には大勢の人間たちが集まっている。

 泰然自若とした態度の夏琳英、恐縮のあまりピンと背筋を伸ばす梨玉、同じく狼狽して冷や汗を垂らしている監臨官かんりんかん以下外簾官がいれんかん、微動だにせず控えている夏琳英の護衛たち。


「そういう恰好をしているのには理由があるの?」

「あ、この襦裙じゅくんは死んだ姉の形見なんです。お姉ちゃんと一緒に科挙登第するのが私の夢だから……あの、郷試に服装の規定はなかったはずですよね?」

「でも顔つきも女の子っぽいわよね? 係員の人たちが疑うのも無理はないわ」

「そ、それは個人差の範疇じゃないでしょうか? 私の一族はみんな女の子っぽい男の人ばっかりでしたよ。うちの父なんておばさんと間違えられることがよくあって――ねえ小雪こゆき


 話を振るなと言いたかった。

 しかしこの場では頷いておくしかない。


「……そうですね」

「あら、あなたは?」

「僕はらい雪蓮せつれん。耿梨玉と同郷の挙子です」

「そう……」


 一瞬、天女のような瞳の裏側に、得体の知れない光が宿った気がした。

 昔からこの人が苦手だった。聡明利発で行動力にも優れ、炎鳳えんほう帝をして「女に生まれたのがもったいない」と言わしめるほどの才女。


 雪蓮は目を伏して夏琳英から視線を逸らした。

 あまり注目されると正体を看過される恐れがあるのだ。

 それで興味を失ったのか、夏琳英は再び梨玉のほうに向き直った。


「事情は分かったわ。つまりあなたは男の人ということね」

「はい。証拠もちゃんとあります」

「ふむ。正考官としてどうするべきかしら……」


 やはり夏琳英が正考官だったらしい。

 が、いくら聡明とはいえ郷試の答案審査ができるほど儒学に精通しているとは思えなかった。何がどうなっているのか――その疑問は直ちに氷解することとなる。

 夏琳英は斜め後ろを振り返って問いかける。


春元しゅんげん、あなたはどう思いますか?」

「問題はないでしょう」


 言葉を発したのは、いかにも文官然とした男である。

 枯れ木のごとき長身痩躯だが、目元には妙な迫力があった。


 呉春元――確か、李青龍が今回の郷試の正考官として挙げていた名だ。夏琳英がわざわざ判断を仰ぐということは、郷試の責任者はあの男ということになる。

 唖然とする一同を黙殺し、呉春元は滔々と言葉を紡いだ。


「挙子耿梨玉にかけられた疑いは〝女かもしれない〟という一点のみ。それ以外に正式な手順を踏んで郷試に臨んでいるならば、目くじらを立てることでもありますまい」

「へえ、面白いことを言うのね呉春元。服を脱がせて調べたりはしないの?」

「それは気の毒というものですよ。結果として男であっても女であっても尊厳を損なうことになります。私にはとてもできません」


 そういう考え方をする人間が紅玲こうれいの官吏にいたとは驚きである。

 夏琳英は面白そうに質問を重ねた。


「でも明らかにしておく必要はあるんじゃない? 女が科挙を受けるなんておかしな話でしょ?」

「女子の科挙受験を明確に禁止している紅玲の法はありません。儒教経典に基づく歴史の積み重ねがそういう慣例を生み出したにすぎぬ。ゆえに私は正考官として耿梨玉とやらの受験を認める所存であります。同じく正考官であらせられる長公主さまがよいとご判断なされれば、の話ではありますが」


 何ということだろうか。

 この呉春元という男、見るからに陰気で旧態依然の趣がある儒学者なのだが、風貌にそぐわぬ柔軟な思考を持っているようだ。


 紅玲の中枢にいながら堕落しないのは甚だ不可思議な話だった。この男には相応のバックボーンがあるに違いない。あるいは何か壮大な企みをしている可能性もあるが――ひとまずは警戒しておく必要がある。


「ふふ……面白いわ。やはりあなたが正考官で正解でした」

「お褒めに与り光栄です」

「謙遜しなくてもいいのに――ああそういえば、挙子の方々には事情をお伝えしていませんでしたっけ」


 夏琳英は軽やかに振り返って言った。


「今回の郷試は正考官が二人、私とこの呉春元で行うことになっています。といっても私は答案審査には関わりません。科挙制度を改革するため、唐州省の郷試がどういう具合なのかを確かめるために参上いたしました。どうか私のことは気にせず問題に励んでくださいませ」


 少なくとも雪蓮にとっては無視できぬ要素だった。

 スカートが翻って甘やかな微風が吹く。

 夏琳英は微笑みとともに一歩進み、突然梨玉の手を握ってこう述べる。


「頑張ってね、耿梨玉。これから様々な試練が立ちはだかるでしょうが、是非とも京師の虎榜こぼう(科挙合格者の名前を記したたてふだ)に名を連ね、お兄様――皇帝陛下のために働いてほしい。私はあなたのような子を応援しているわ」

「へ、へ? あ、ありがとうございます……?」

「瞳が輝いている。あなたならきっと合格できるでしょう――監臨官、耿梨玉について応試を許可します。服装も彼女の意思に従い、必ず女装のまま受けさせるように」

「は、仰せの通りに」


 監臨官が恭しく礼をする。

 一方、梨玉は梨玉で大変なことになっているようだ。一挙に頬を赤らめ、言葉も出せずに嬉しさを噛み締めている。その反応は仕方のないことでもある――通常、一般の民にとって皇族は雲の上の存在なのだ。目をかけてもらって舞い上がらないわけがない。


「では今回の沙汰は以上。皆さん、郷試の運営をよろしくお願いしますね」

「あっ……長公主様……」

「大丈夫。あなたならできるわ」


 夏琳英が名残惜しそうにする梨玉から手を離す。

 護衛を引き連れ扉に向かい、頭を垂れる内簾官に見送られながら去っていった。


(絶対に何か企んでいる……)


 一挙手一投足を注意深く観察していたが、その真意を解き明かすことはできなかった。今後も正考官として絡んでくる以上、気を緩めることはできないのだが――

 そこで隣の少女の様子がおかしいことに気がついた。


「梨玉、どうしたんだ」

「えへへ……長公主様って素敵な方だね……」


 梨玉は恋する乙女のように夏琳英が去っていった方向を眺めている。

 雪蓮は人知れず深い溜息を吐いてしまった。

 あの女の人を篭絡する手腕は一級だ。

 梨玉のように純粋な人間が騙されるのも無理はない。


 かといって夏琳英の邪悪さを説くわけにもいかないため、雪蓮はひとまず「確かに寛大な方だな」と無難な感想を述べてお茶を濁しておいた。

 不意に梨玉が雪蓮の手を握ってくる。


「小雪、頑張ろうね!」

「ん? ああ、もちろんだが……」

「だって長公主様に激励されちゃったんだもん、こんなの頑張るしかないよね? たとえ星が降ってきてもご期待に応えなくちゃだよ――小雪、はやく試験会場に行こう! 問題解きたくてウズウズしてきちゃった!」

「おい引っ張るな。転んだらどうするんだ」


 梨玉のやる気は極限まで高まったらしい。

 その点は夏琳英に感謝しなければならないが――やはりあの女の動向は不気味だった。


(やつの企みを暴いてやる。何か仕掛けてくるようなら容赦はしない)


 梨玉に手を引かれ、雪蓮は密に決意した。

 だが、この時点で一点失念していたことがあった。


 郷試は科挙の本番。試験地獄の真骨頂。

 盤外の些事に気を取られたまま合格できるほど甘い試験ではないのである。

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