第44話 親族

 その晩、正考官・春元しゅんげんは、貢院こういんの中庭で天を見上げながら酒杯を傾けていた。


 季節は中秋、気候は穏やかで夜空に月もよく映える。

 正考官の任務さえなければなんと心地よい一時だったかも知れない。

 が、もちろん苟も皇帝陛下から賜った大役を放棄するわけにもいかぬ。


(面倒すぎるだろ……)


 呉春元は今後の作業に思いを馳せてげんなりしていた。

 正考官・副考官以下多数の内簾官は、以後約二週間、外に出ることも許されず貢院に缶詰状態となるのだ。


 ちなみに同じ正考官である栄明えいめい長公主ちょうこうしゅは首府の宿に宿泊しているそうだ。皇族だから当然のこととはいえ、明らかな特別扱いに顔をしかめざるを得ない。あの方は本当に答案審査をする気があるのだろうか。


「――お兄様。明日からいよいよ試験でございますね」


 不意に、屋敷のほうから弟の冬元とうげんが現れた。

 先ほどまで最後の確認をしていたが、無事に終わったらしい。椅子の上に腰を下ろし、呉春元の盃が空になったのを見て取るや、すかさず瓶を傾けて注いでくれる。


「準備に抜かりはないか」

「挙子たちは無事入場を終えたとの報告がありました」

「よろしい」


 この後、挙子はそれぞれの号舎ごうしゃで一夜を明かすことになる。

 明日の朝から始まる一回目の試験に備え、眠りたくても眠れない地獄のような時間を過ごすのだ。

 冬元は膨らみの足りない月を見上げて言った。


「よく晴れていますね。挙子たちも健やかに臨めることでしょう」

「そうだな。俺たちが郷試を受けた時は、ひどい大雨だったからな……」

「懐かしいですね。答案用紙が濡れないよう必死だったものです」


 呉春元は注いでもらった酒を口に含みながら過去を反芻する。

 あの日は本当にひどかった。


 貢院の独房には戸がない(密室ではない)から風雨が入り込んでくるのだ。受かる見込みもないのに苦労して問題を解いても仕方ない――そう考えて試験を抜け出そうとしたものである。結局見張りのせいで抜け出せなかったが。


「お兄様はさすがですね。あれから約八年経った現在、同年合格の進士たちとは比べ物にならぬほどの出世を重ねました。将来の内閣大学士首輔(宰相)として推挙する声もあるそうですよ」


 全部運である。

 呉春元は溜息を吐いた。


「そんな大層なもんじゃない。俺はぼんやりと生きてきただけさ」

「ですがこの唐州とうしゅう省を任されるということは、それだけ皇帝陛下の信任を得ているということですよ。この辺りでは黄皇党こうこうとうがのさばっているという話ですからね」

「ありがたくて涙が出てくるね……」


 同考官(正考官の補佐)に聞いた話によれば、雲景うんけい府には黄皇党の首魁が潜んでいるらしい。姓名は釣文ちょうぶんといい、紅玲朝の転覆を図っているテロリストである。紅玲朝の始祖である太祖たいそ豊熙ほうき帝の血を引くと自称しているが、根拠のない出鱈目とされていた。そういう輩は天下にいくらでもいるのである。


「……まあ、細かいことは関係ない。俺は与えられた仕事をこなすまでだ」

「さすがですお兄様。匪賊ごときは眼中にないのですね」

「そういうわけじゃないが、気にしても仕方がないだろ」


 此度の郷試はイレギュラーなことが多すぎる。

 黄皇党もそうだが、正考官として来臨している栄明長公主も悩みの種だった。何故自分が彼女の面倒を見なければならないのか微塵も分からない。皇族は皇族らしく天陽府の宮殿で宴会でもしていればいいのに。


 すべてを放り出して深山幽谷に隠棲したい。

 とはいえ、呉春元が宮廷から去ることはなかった。

 八方手を尽くせば致仕ちしも可能だが、家族を養うためには働き続ける必要がある。郷里の父母はもちろん、親戚一同にもいい思いをさせてやりたかった。幼く貧しい頃、何度も助けを受けたからだ。


 それに呉春元が引退すれば、必ず冬元もついてくる。

 この弟はいずれ天下に名を轟かせる大器だ。

 温故知新の志のもと紅玲を改革していくに違いない。

 だからこそ兄の影響で潰されることがあってはならなかった。


(一族のため。それが俺の目的だ。働きたくねえけど……)


 この時代、個人で生きていくことは実質的に不可能だった。

 一族の紐帯がなければ野垂れ死にの末路しかない。

 ゆえに儒教云々を差し引いても家族を蔑ろにすることはできないのである。

 しばらくは慕ってくれる弟のためにも頑張るしかなかった。


「そういえばお兄様、昼の騒動はどういうお考えだったのですか」

「昼? なんだっけ?」

「女のような挙子の件ですよ。名前は確か耿梨玉でしたね」


 呉春元は緊張で縮こまった挙子の姿を思い出した。

 あれは――おそらく女に違いない。

 挙子である時点で性別は確定しているはずだが、耿梨玉の容姿は周囲から浮きすぎている。鈍い呉春元にもすぐ分かるほどに。


「女である可能性が高いことはお兄様もお分かりでしょう? あの場で身ぐるみを剥がすのはどうかと思いますが、後ほど裏でやればよかっただけなのでは」

「それはできないな。何故なら――」


 耿梨玉を見逃した理由は二つある。

 一つは、単に面倒くさかったからだ。

 長公主の手前もっともらしい理由を滔々と述べたが、本心は「面倒ごとに関わりたくない」であった。


 ただでさえ缶詰生活で気が滅入っているのに、余計な作業を増やしたくはなかった。

 たとえ耿梨玉が女であったとしても問題ない。

 すべての責任は通過させた郷試以前の試験担当者にある。だいたい隣にいた長公主が太鼓判を押したのだ。呉春元が責任を追及される謂れは露ほどもなかった。


 そして耿梨玉を見逃したもう一つの理由は――


「耿梨玉の熱意が本物だったからだ」

「と言いますと?」

「家族の形見を身につけて郷試に臨んでいるらしい。そういう思いは尊重されるべきだ。無粋なことをして水を差すような真似はしたくなかったのさ」


 冬元は一瞬、不服そうな顔をした。

 呉春元はそれを手で制して続ける。


「俺たちと同じだよ。挙子はそれぞれ大事なものを背負ってやってるんだ。不正が見つかったわけでもないし、好きにさせておけばいいじゃないか」


 呉春元は挙子に対しては寛大な対応を心掛けている。

 自分のような不出来が出世する一方、明らかに優秀な者が不当に陥れられる世の中など間違っているからだ。

 やがて冬元は兄の言葉を咀嚼したのか、声を弾ませて言った。


「なるほど感服いたしました。お兄様の心は泰山のように雄大ですね」


 輝く右目に見据えられ、呉春元はわずかに視線を逸らした。

 優れた鑑識眼を持つくせに、兄のこととなると盲目になるのは考え物である。

 ところが冬元は、口元に柔らかな微笑を湛えてこう続けた。


「しかし、耿梨玉は相応しくありませんね」

「どういう意味だ」

「単純に地力が足りないように見受けられます」


 あの一瞬で見抜いたとでもいうのだろうか。


「……俺にはむしろ耿梨玉のような人間こそ挙人に相応しいと思うがね。まあ、その答えは試験をしてみれば分かることだ」

「ですから私は間違っても劣った者が通過しないよう細心の注意を払って問題を作りました。このような機会をいただけたこと感謝いたします」


 呉春元は驚いて冬元の顔を見た。

 この弟は昔から抜群の才覚を持つが、ある種の良識が欠如している面もあった。

 底知れない笑みを向けられ、呉春元は溜息を吐きたくなる。


「冬元、何をした」

「お兄様もご存知でしょうが、郷試に合格して挙人となった者は、その際の正考官・副考官を士大夫人生の師と仰ぐことになります。殿試を通過して晴れて官吏となれば、お兄様や私の手足となって働いてくれることでしょう」


 明朗に詩を吟じるような美声が宵闇に沁み込んでいく。

 それはさておき――確かに冬元の言うことにも一理あった。

 実際、去年の閔州びんしゅうの郷試を合格して官吏になった者たちは、呉春元に尊崇の念を寄せて教えを請わんとしている。邪険に扱うこともできないので野放しにしているが、いずれ一つの党派でも形成されそうな勢いだった。


「つまりこれは子弟を選ぶための試験もあるのですよ。どうして生半可な問題が出せましょうか」

「だからといって難しすぎるのは困るぞ」

「科挙は試験官と受験者の一騎打ち。我々は官界の荒波に耐えうる人物を見つける必要があるのです――ゆえに」


 冬元は呉春元の杯に酒を注いでいく。

 いつの間にか尽きていたらしい。

 ほどなくして凄みのある笑みが月明りに照らし出された。


「――挙子を殺し申し上げる。それくらいの意思でやらねばなりますまい」

「お前なあ……」


 やはり作問を一任したのは間違いだったのかもしれない。

 だが、あまり冬元を責める気にはなれなかった。

 何故なら呉春元にとって大切な弟――家族だからである。

 致命的な事項でないならば、兄として弟のことを支持してやればいい。

 血のつながった者を蔑ろにできる人間は、いないのだ。

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