五回 德は孤ならず

第37話 県学

「これにて科試かしは終了だ。結果は後日発表するので各自待機せよ」


 ひょろ長い風貌の総官学政そうかんがくせいが、厳粛な口調でそう告げた。

 その瞬間、ピンと張り詰めていた空気が一挙に弛緩する。

 そこここで安堵と疲労が綯い交ぜになった吐息が漏れた。


 らい雪蓮せつれんの隣で頭を悩ませていた少女、こう梨玉りぎょくも例外ではない。学政が退室したのを見届けるや、矢に貫かれて死ぬ兵士のように突っ伏すのだった。


「やっと終わったぁ。もう何も考えたくない……」

「先が思いやられるな。郷試はこんなものじゃ済まないだろ」

「もう! 小雪こゆきったら、もう少し優しい言葉はかけられないの?」

「僕は事実を述べたまでだ」


 梨玉が頬を膨らませて見上げてきた。

 しかし雪蓮の言葉に理があることを悟ったのか、結局、諦念の色濃い溜息を吐いてしょんぼりする。


「やっぱり道のりは長いよねえ。生員せいいんになればそのまま郷試きょうしを受けられるかと思ってたのに、まだ試験をやらなくちゃいけないなんて……」

「まあ、試験のために何度も試験をするのが科挙の特徴だからな」

「それにしたって多すぎじゃない?」

「倍率三千倍は伊達じゃないってことさ」


 梨玉はげんなりした様子でもう一度溜息を吐く。

 ふと周囲を見渡せば、科試を乗り切った生員たちがお互いの健闘を称え合いながら退室していく。彼らはいずれも地獄のような童試どうし(県試・府試・院試)を乗り越え、生員の身分を手に入れたエリートである。


 だが、それで即座に科挙の本試験――郷試に挑めるわけではない。

 三年に二回のペースで科試と呼ばれる予備試験が行われ、そこで郷試に挑むに十分な実力があるかを試されるのだ。科試で優秀な成績を修めなければ、学校を出ることは許されなかった。


「私、合格してるかなあ?」

「さあな。それは自分自身がいちばん分かってるんじゃないか?」

「そうだけどお! 小雪、もっと励ましてよお!」

「これからは個人戦だ。院試の時のようにはいかないぞ」

「だからこそ助け合うんでしょ? 困った時は遠慮なく私を頼ってね」

「必要ない。僕は一人でも勝ち進んでいける」

「あ、目の下に隈ができてるよ? 疲れてるんじゃない? 私が肩を揉んであげるよ」

「だから必要ないって。気安く触れるんじゃない」

「え~? 小雪ったら照れちゃって」


 じゃれついてくる梨玉を躱し、雪蓮は机の上に散らばっていた筆やすずりを片付け始める。相も変わらず天真爛漫、雪蓮とは真逆の気質を持った子だった。


 その出で立ちはどこからどう見ても女性。

 春を思わせる桃色の襦をまとい、ゆったりとした裙の裾をなびかせる。右に左にと身体を動かすたび豊かな栗色の髪が揺れ、心地よい香りが立った。周囲の生員たちは梨玉を男と認識しているはずなのに、無意識的にその足取りを目で追ってしまう。


 その色香にどれだけ辛酸を舐めさせられたことか。

 しかし、梨玉とは秘密を握り合った関係だ。

 この後の郷試、会試、果ては殿試まで付き合わなければならぬ。


(相変わらず前途多難だな……)


 梨玉の無垢な笑顔を見、雪蓮は密かに嘆息するのだった。


 時は光乾こうけん六年、四月。

 変則的な院試を奇策によって突破した雪蓮と梨玉は、晴れて生員の身分を獲得し、国立学校の一つである県学に在籍することとなった。


 県学は生員の勤怠を調べる機関でもある。きちんと勉学に励んでいるか、生員に相応しくない言動をしていないか、次の郷試に応じるだけの実力があるか――そういった諸々の項目をチェックするのだ。


 教官による講義もあるにはあるが、質は著しく低かった。経書の文句を間違えるのは序の口で、講義の最中益体のない世間話に終始することも多々ある。時には講義そのものをすっぽかし、生員たちに待ちぼうけを食らわせることもあった。


 何故なら国立学校の教官とは官吏の左遷先だからである。国の行く末を憂い将来の大器を育成する――そんな高潔な志を持った教官など存在しない。ゆえに生員たちが学校に通う理由は、もっぱら郷試に応じる資格を得るために尽きた。


 ただし科試は三年に二回程度の頻度でしか行われない。ゆえに雪蓮は県学に入学してから約一年の間、一日千秋の思いで勉学に打ち込んできたのである。


 そして今日、努力が報われる時が来た。

 学政が県学を訪れ、科試を執り行ってくれたのだ。


(そういえば、あいつじゃなかったな……)


 雪蓮は先ほど部屋を出て行った学政の顔を思い出した。

 見知らぬ人物である。この地域を担当しているのは雪蓮と因縁浅からぬ王視遠という男のはずだったが、別の地に転属でもしたのだろうか。


 いずれにせよ、科試の手応えは十分だった。

 八月に行われる郷試には問題なく臨めるはずである。


「梨玉殿に雪蓮殿、試験はどうたったね?」


 荷物をまとめて退室の準備を済ませた時、微笑みを浮かべた青龍せいりゅうがやってきた。妙に浮世離れしたその風格は、儒者というより道教的な仙人を想起させる。

 梨玉は難しそうに眉をひそめ、


「わ、分かんない。なんとか合格できていればいいんだけど……」

「梨玉殿なら大丈夫だろうさ。何といっても私が見込んだ男だからね、郷試の前座で躓くような人物ではあるまい」


 ちなみに李青龍は梨玉のことを未だに男だと思い込んでいる。

 見た目に似合わず鈍いやつだった。


「梨玉さんならきっと大丈夫です!」


 李青龍の隣に立っていた欧陽おうようぜんが口を開いた。

 相変わらず女子のような見た目だが、これは宦官になるため局部を切断していることによる。


「梨玉さんが状元じょうげんになれば、紅玲こうれいは根本的に良くなると思います。僕みたいな境遇の人も減っていくでしょうし、絶対に合格してほしいです」

「ありがとう冉くん。でも冉くんも一緒に合格しようね!」

「は、はいっ。頑張ります」


 欧陽冉は恥ずかしそうに笑った。

 周囲の生員たちの二、三がちらと視線を寄越してくるのは、白皙はくせきの美貌に惑わされたからに違いない。欧陽冉は以前「恋文をよくいただくんです」と零していたが、相手はすべて同学の生員、つまるところ男である。雪蓮には理解できない領域で苦悩しているようだった。


「欧陽冉、聞きたいことがあるんだが」

「何でしょうか?」

「こないだ中庭で直接告白されていたよな? 受けるのか?」


 李青龍が「ぶっ」と噴き出した。

 対して欧陽冉は両手をあたふた動かして慌てる。


「こ、断りました! いきなり言われても困るといいますか……」

「でも相手は本気だったんじゃないか?」

「本気だから困ってるんですよぉ!」


 欧陽冉も見方によっては雪蓮と同じである。

 男なのに女として見られることが多い。しかも多くの男から言い寄られている――何がそこまで他者を惹きつけるのか研究・分析を重ねておく必要がありそうだ。


「何故あんたはそんなに好かれるのだろうか……」

「し、知りません。たぶん県学が男の人しかいないからじゃないでしょうか……」

「なるほどな。女の代替品というわけか」


 女人禁制の寺院などでは男色が盛んになる傾向があると聞く。

 これも似たようなものだろうか。いずれにせよ実に興味深い。

 さらに観察するべく近づいた瞬間、李青龍が笑いを堪えながら割り込んできた。


「まあまあ雪蓮殿、勘弁してやってくれ。冉殿は同学の連中にたいそう辟易しているそうだからな」

「い、いえ、別に大丈夫ですが……」

「告白の件は私も覗き見していたが、相手は尋常でないほど情熱的だったね。冉殿が困惑するのも無理はない――大声で愛の七言律詩を吟じ始めた時は呆れを通り越して感心してしまったよ。あれこそまさに現代に蘇った大詩人の類だ」

「青龍さん、思い出させないでください!」


 欧陽冉は頬を紅潮させて声を荒らげた。

 院試の時よりもはるかに生き生きとしているように見受けられる。

 親の重圧から逃れ、科挙登第を目標として邁進する欧陽冉は、今や県学でも一廉の才として名を馳せていた。この一年弛まぬ努力を続けたことで学力は向上し、以前のように試験に対して不安を吐露することも減ったのである。


 一方、李青龍のほうも相変わらずだ。

 肚の内で何を考えているのかは読めないが、余人には及びもつかない視点で難なく関門を突破している。この調子であれば何も問題はない。彼も将来は何か特別なことを成し遂げるに違いなかった。


(全員合格できるだろうか……?)


 院試で同じグループになった四人組は、各々がその力を伸ばしている。

 四人揃って科挙登第、などという夢物語が一瞬頭を掠めてしまった。

 否、他人のことなんて気にする必要もないのだが――


「……ん? どうした梨玉」

「ううん。何でもないよ」


 一瞬、梨玉が物憂げに窓の外を見上げたので不審に思った。

 しかし深く追及するより先に、李青龍が声をあげた。


「よし! 景気づけに夕餉でも食べに行こうじゃないか。科試の結果がどうあれ、今日頑張った自分たちを労ってやることは必要だろう?」

「いいですね! 雪蓮さん、梨玉さん、行きましょう」


 断る理由はなかった。

 梨玉のことも気になるが、空腹の解消を優先するべきだ。

 試験を受けている最中から腹の虫が鳴って仕方がないのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る