第17話 茶会

「え?」


 鼻先に手を差し伸べられて固まってしまった。

 何気なく手の主を見上げる。

 そこに立っていたのは、ちょっとびっくりするほど器量のいい女の子だった。

 春風になびく艶やかな黒髪。着物は華やかな青色の襦裙。白磁のように白い肌には化粧が施され、目元に若干の朱が差している。その大きく見開かれた瞳が、梨玉のことを心配そうに見つめていた。


「あ、だいじょぶです……ちょっと転んだだけだから」

「よかったあ! もしかしてお上りさんかな? このあたりは人通りがすごいから、物思いに耽るには向いてないよ」


 女の子は梨玉の手を握って引っ張り上げてくれた。

 梨玉の着物についた砂埃を払ってくれ、屈託ない笑みを浮かべる。


「あとこれ、服の内側から落ちたよ?」

「あ、私の財布! ありがとう!」


 梨玉は慌てて財布を受け取った。中身も無事のようである。ともすれば気づかずに去っていた可能性もあるから、彼女には感謝してもしきれなかった。


 しかし、この子は何者なのだろうか。

 ただの町娘とは思えぬ風格を備えているが――


「――じゃあ、私はこれで」

「待って!」


 去ろうとする少女を、梨玉は慌てて引き留めた。

 何故かそうするべきだと思った。


「お礼をしたいの! どこかでお茶でもいかが?」



          □



 雪蓮は会館でぼうっとしていた。

 寝ているのではない。思考を働かせているのである。


 王視遠の繰り出した異常な試験方式は、無垢な童生に焦りをもたらしたに違いない。この会館には多くの童生が寝泊まりしているが、先ほどから慌ただしく駆け巡る足音が絶えなかった。


 梨玉は「私たちもあと一人見つけなくちゃ!」と切羽詰まっている。

 李青龍は「他の童生たちの動向をさらうよ」と姿を消した。


 雪蓮としては焦っても仕方がないと思っている。

 向こうから近づいてきた者と手を組むなど言語道断だ。梨玉には「余った者と組めばよい」と適当なことを言っておいたが、実はそれでも駄目なのである。伍のメンバーはじっくり吟味しなければならない。

 あの試験官の企みが分かるまでは。


「雷雪蓮はいるか」

「ん」


 部屋の戸を叩く音が聞こえた。

 気配を探る。人数は一人だ。何かあっても問題なく対処できる。

 警戒しながら出ると、官服を身にまとった男が立っていた。


「なんだ、いるじゃないか。いるなら早く返事をしろ」

「すみません。僕に何かご用ですか」

おう視遠しえん学政がくせいがお呼びだ。すぐに身支度を整えて府に来るように」



          □



「私は耿梨玉! あなたのお名前は何ていうの?」

「え? ああ、えっと、……」

「夏?」

「間違えた、しょうだよ! 照っていうの」

「照! よろしくね」

「うん、よろしく梨玉!」


 梨玉を助けてくれた少女、李照は、何かを取り繕うように笑って言った。わずかに怪しいものを感じたが、梨玉は特に気にすることもなく笑みを返した。


 場所は府城の片隅にたたずむ喫茶店である。

 茶請けの棗を齧りながら、梨玉は興味深く李照の形を観察した。


「すごい華やかだねえ。照ってどこかのお姫様だったりするの?」

「違うよ、こういう恰好が好きなだけ。そういう梨玉だって、とっても華やかな服を着ているじゃない?」

「そうかな? これはお姉ちゃんの服なんだけど……」

「とってもお洒落よ! この辺りの女の子の中でもずば抜けてるもん」


 ぎくっとした。梨玉は男として通っているのだ。さすがにこれは訂正しておかねば障りがある。


「えーと。ごめん。私って男なんだ……」


 李照は目をしばたたいた。


「何の冗談? 梨玉は可愛い女の子じゃない」

「本当なの。私は院試を受けにきた童生だから。府試の合格証書もあるし……」


 耿梨玉と書かれた証書を取り出して見せてやった。

 科挙は男しか受けることができないため、この証書を所持している時点で性別が確定するのだ。李照は何度も瞬きして確認していたが、やがてそれが本物であることを悟ると、突如として断末魔のような悲鳴を上げた。


「――嘘!? じゃあ、それは女装ってこと!?」

「あははー。そういうことになるねえ」

「あ、有り得ない。こんなに可愛い男の子がいるなんて……」


 ぷるぷると震える指で梨玉の肩をつつく。

 あまり触られると身体の凹凸がバレるのでやめてほしかった。

 梨玉はそこはかとない罪悪感を覚え、李照から視線を逸らしてしまう。


「ねえ梨玉、何でそんな恰好を……?」

「趣味かな? あとはまあ、それなりに事情があって」

「ふーむ……」


 李照は珍しい動物を見るような目で梨玉を見つめてきた。

 この恰好は梨玉のポリシーみたいなものだ。にっちもさっちもいかなくなるまでは、何としてでも貫き通したいと思っている。

 だが李照は、至極当然の指摘を加えてきた。


「でもそれじゃ、あらぬ疑いをかけられるんじゃない?」

「え? どんな?」

「女だって間違われちゃうでしょ? 色々と面倒なことがあるんじゃないかなーって思うんだけど」

「ああ……」


 確かにそうだ。

 県試ではたちの悪い童生に絡まれた挙句、殺人事件の犯人呼ばわりされてしまった。雪蓮からも「もう少し男らしくしたらどうだ」と苦言を呈されている。疑われるごとに府試の合格証書や戸籍の写しを見せるのも面倒だ。


「男装もいいと思うよー? 男装っていうか、普通の姿に戻るってことだけど。梨玉ってば可愛いから、そういう服装も似合うと思うんだけどなあ」

「そ、そうだね。考えておくよ」

「あと最近、軍がうろついているから注意してね」


 途端に李照は声を潜めて言った。


「軍? 戦いでも始まるの?」

「よく分からないけれど、消えた公主を捜してるんだって。最近はだんだん見境がなくなってきたみたいで、見目麗しい女の子を見つけては、役所に引きずり込んで徹底的に調査してるみたい。私も一度だけ連行されかけたことがあるの」

「ええ!? そんなのアリなの!?」

「大事な院試の時期なのに、連れていかれたら大変でしょ? 何か事情があるのは分かるけれど、もうちょっと目立たない恰好をしたほうがいいんじゃないかなーって」


 梨玉はお茶を飲みながら黙考する。

 女の恰好のままでは、やはり無理があるのか。

 李照がにわかに立ち上がって言った。


「ま、挙人だの進士だのになる人は考えていることが違うって言うしね。忘れて忘れて、やっぱり梨玉はそのまんまが素敵だよ。とっても似合ってるし」

「そう言われると迷いが出てくるような……」

「大丈夫だって。今日はお茶に付き合ってくれて楽しかったよ、ありがとね」

「あれ? 照、もう行くの?」

「うん。これからちょっと用事があるんだ」


 元はと言えば、梨玉が無理を言って誘ったのである。そういうことなら引き留められる道理もなかった。

 李照は二、三歩前に出ると、くるりと振り返って笑うのだ。


「またお話ししようね、梨玉!」

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