第18話 不和
夕暮れの時分、梨玉が会館に戻ってきた。
着ていた
「ねえ小雪、この仕草って男の人っぽい?」
「どうしたんだ急に」
「あのね……」
梨玉は神妙な面持ちで奇行の原因を説明した。
すべて聞き終えた雪蓮は、極めて適当に締めくくった。
「好きにすれば?」
「もう! こっちは真剣に聞いてるのに!」
「せめて服装だけは替えたほうがいいかもな。万全を期するならば」
梨玉が目立てば目立つほど、雪蓮の性別が露見するリスクは低下する。それを考慮するなら女らしい恰好をしてくれたほうが得なのだが、しかし、今回の試験は伍によるチーム戦だ。梨玉に何かあれば、雪蓮にまで飛び火する可能性があった。
梨玉が不満そうに頬を膨らませて言う。
「戸籍台帳の写しだけじゃまずいかな?」
「場合による」
「ちなみに小雪の戸籍ってどうなってるの? 私は役所の役人さんが遠い親戚だから、なんとかして男に変えてもらったの」
それは犯罪である。雪蓮は溜息を吐いて言った。
「僕のはもともと男になってるよ」
「ええ? 生まれた時から嘘吐いてるってこと?」
「どうでもいいだろう。……まあ、梨玉はそのままの恰好でいい。何かあったら僕が何とかする」
「小雪……! やっぱり小雪は小雪だねっ」
「わあ! だから馴れ馴れしくひっつくな!」
犬のようにじゃれてくる梨玉を必死で押しとどめる。
その時、部屋の戸が許可もなく開いた。
「雪蓮殿! 外で騒ぎが起こっているようなんだが……」
李青龍だった。
しかしその言葉は、雪蓮と梨玉が絡み合っているのを見た途端に止まってしまった。彼はわざとらしい咳払いをしてから言った。
「またも邪魔してしまったようだね。私は退散するのでごゆるりと……」
「行くな青龍! 騒ぎっていうのは何なんだ!?」
「小雪、何でそんな必死なの?」
面倒な勘違いをされたくないからだ。
泡を食って引き留めると、李青龍は困ったように言った。
「……いや、騒ぎというほど大袈裟でもないが、いやな現場を目撃してしまってね。童生同士で揉め事が起きているようなんだ」
□
「はっ、こっちはもう四人揃ってんだ! お前みたいなへなちょこが入る余地なんざ、とうになくなってるんだよ!」
「あっ……」
男が声を張り上げ、拳を振るった。
振るわれたほうは、短い悲鳴をあげて砂の上に突っ伏した。
試院の中庭でたむろしていたのは、五人ばかりの童生である。おそらく伍を組んでいるであろう四人組と、それに何事か縋りついている少年だった。
「ごめんなさい。ごめんなさい。他に頼める人が見つからなくて……ごめんなさい」
「知るか! だいたい、院試はお前みたいな下賤な人間が受けるものではないんだよ。さっさと荷物をまとめて帰りな」
「できません。僕は……」
「口答えするな!」
男たちは躍起になって少年を足蹴にしていた。下卑た笑い声がこだまする。府試を突破した立派な童生であろうに、やはり手のつけようもないぼんくらはいるものだ。
「何やってるの! その人から離れてよ!」
どうしたものかと思案していると、すぐ隣から甲高い声が聞こえてきた。雪蓮も李青龍も止める隙はなかった。正義感に駆られた梨玉が、後先考えずに童生たちのもとへ突っ走っていたのだ。
四対の目が、ぎろりと梨玉を捉えた。
「何だ、女が俺に何の用だ」
「私は男だよ! とにかく暴力はやめて」
「はあ……?」
一瞬呆けた後、爆笑が中庭に響いた。
「笑わせやがる! なあお前ら、聞いたか!? このお嬢さんは男を自称した挙句、俺たちのことを暴漢呼ばわりだ! 世迷言も度を過ぎれば反吐が出るぜ!」
「暴力を振るってるんだからそうでしょ? だいたい私は男だよ、お嬢さんじゃない。院試を受けに来たんだから」
「……おい、あんまり冗談言ってると承知しねえぞ」
そう言って凄んだのは、おそらく伍の頭目を務めている男だ。
絹で編まれた上質な衣に身を包み、炯々とした目でこちらを睥睨している。恰幅に恵まれ、食うに困っていないことがありありと分かった。端的に言うならば、良家のどら息子といった風体である。
もはや衝突は避けられないようだった。
雪蓮と李青龍は、梨玉に加勢するべく彼らのもとへ駆け寄る。
「梨玉が男だっていうのは本当だよ。それよりあんた、こんなところで弱い者いじめはよくないぞ」
「ああ? 何だてめえら」
「僕は受験者の雷雪蓮だ。……胥吏に見つかったら叱られるぞ」
「馬鹿を言うな、最初に突っかかってきたのはこいつのほうだぜ。こっちはもう定員だってのに、仲間にしろ仲間にしろって五月蠅くて敵わん」
雪蓮は倒れている少年に目をやった。
否――少年かと思い込んでいたが、その涙のにじんだかんばせは、可憐な少女のように見えた。背丈も筋肉もそれほどないため、十人いたら十人が女性と答えるはずである。
だが伍のメンバーを求めていたということは、此度の院試の受験者――すなわち男に他ならないのだ。梨玉や雪蓮のように性別を偽っているのか、元からこういう顔つきなのかは判然としなかった。
李青龍が前に出て言った。
「きみ、
「はっ、よく知ってるじゃねえか。だったら俺に突っかかってくるんじゃねえ。うちは三代にわたって進士が輩出した家系だ、お前たちとは端っから身分が違うんだよ。馬鹿どもは黙っていやがれ」
「その通りだ。こちらの非礼は詫びるから、今日のところは穏便に――」
「あーっ! あなた、さっき私にぶつかってきた酔っ払いだ!?」
梨玉が目を丸くして王凱を指差した。
わけが分からぬが、事態の収拾が困難になったのは明らかだった。
李青龍が慌てた。
「すまんが梨玉殿、できれば口を噤んでほしいのだが」
「昼間っからお酒を飲み歩いた挙句、他の童生をいじめるなんて問題外だよ! 学政さまが知ったら、あなたなんて一発で不合格になっちゃうんだから!」
「梨玉殿! 噤んでほしいのだが!」
「何だと? 誰に向かって口を利いていると思ってるんだ?」
「卑怯者と話しているのっ!」
李青龍が石のように固まった。思考を放棄したらしい。
王凱が鬼のように
「この小娘が!! 卓南王家の嫡男に向かって何たる不遜だ!!」
「そんなことは関係ないでしょ!? 進士にならんとするなら、拳じゃなくて言葉で語るべきだと思わない!? あなたのやっていることは
「お前に何が分かるというのだ!!」
王凱が拳を振りかぶった。
しかし梨玉は避ける気配もない。
雪蓮はその場からわずかに踏み出すと――
「やめろ」
素手で拳を受け止めていた。
まさか防がれるとは思わなかったのか、王凱はもちろん、取り巻きの三人、伏している少女のような童生、梨玉や李青龍までもが目を丸くして言葉を失った。
硬質な静寂の中、雪蓮は静かに告げる。
「やるなら院試の結果で競い合うべきだ。僕たちは文官を目指しているんだぞ」
「何を……」
王凱が何事か反駁しようとした時、にわかに周囲が騒がしくなった。争いを聞きつけた童生や役人たちが、大挙して押し寄せたのである。さすがにこのまま横暴を働くこともできないため、王凱は露骨に舌打ちをすると、拳を引っ込めて踵を返した。
その際、雪蓮や梨玉のことを睨んでおくことも忘れない。
「覚えていろよ。その浅慮を後悔させてやる」
「お手柔らかに頼む」
王凱は仲間を引き連れて去っていった。
その後ろ姿を見つめながら、雪蓮は静かに思考する。
(排除するか。それとも――)
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