第18話 不和

 夕暮れの時分、梨玉が会館に戻ってきた。

 着ていたほうを畳んで寝台に置くと、何やらもどかしい表情を浮かべて腕を組む。かと思えば、足を組んだりあぐらをかいたり、果ては寝台に寝転がって「大」の字にのけぞったりする。


「ねえ小雪、この仕草って男の人っぽい?」

「どうしたんだ急に」

「あのね……」


 梨玉は神妙な面持ちで奇行の原因を説明した。

 しょうという少女に出会ったこと。科挙を受けるなら男らしく振る舞ったほうがいいと指摘されたこと。さらには役人どもが消えた公主をなりふり構わずに捜索していること。

 すべて聞き終えた雪蓮は、極めて適当に締めくくった。


「好きにすれば?」

「もう! こっちは真剣に聞いてるのに!」

「せめて服装だけは替えたほうがいいかもな。万全を期するならば」


 梨玉が目立てば目立つほど、雪蓮の性別が露見するリスクは低下する。それを考慮するなら女らしい恰好をしてくれたほうが得なのだが、しかし、今回の試験は伍によるチーム戦だ。梨玉に何かあれば、雪蓮にまで飛び火する可能性があった。

 梨玉が不満そうに頬を膨らませて言う。


「戸籍台帳の写しだけじゃまずいかな?」

「場合による」

「ちなみに小雪の戸籍ってどうなってるの? 私は役所の役人さんが遠い親戚だから、なんとかして男に変えてもらったの」


 それは犯罪である。雪蓮は溜息を吐いて言った。


「僕のはもともと男になってるよ」

「ええ? 生まれた時から嘘吐いてるってこと?」

「どうでもいいだろう。……まあ、梨玉はそのままの恰好でいい。何かあったら僕が何とかする」

「小雪……! やっぱり小雪は小雪だねっ」

「わあ! だから馴れ馴れしくひっつくな!」


 犬のようにじゃれてくる梨玉を必死で押しとどめる。

 その時、部屋の戸が許可もなく開いた。


「雪蓮殿! 外で騒ぎが起こっているようなんだが……」


 李青龍だった。

 しかしその言葉は、雪蓮と梨玉が絡み合っているのを見た途端に止まってしまった。彼はわざとらしい咳払いをしてから言った。


「またも邪魔してしまったようだね。私は退散するのでごゆるりと……」

「行くな青龍! 騒ぎっていうのは何なんだ!?」

「小雪、何でそんな必死なの?」


 面倒な勘違いをされたくないからだ。

 泡を食って引き留めると、李青龍は困ったように言った。


「……いや、騒ぎというほど大袈裟でもないが、いやな現場を目撃してしまってね。童生同士で揉め事が起きているようなんだ」



          □



「はっ、こっちはもう四人揃ってんだ! お前みたいなへなちょこが入る余地なんざ、とうになくなってるんだよ!」

「あっ……」


 男が声を張り上げ、拳を振るった。

 振るわれたほうは、短い悲鳴をあげて砂の上に突っ伏した。

 試院の中庭でたむろしていたのは、五人ばかりの童生である。おそらく伍を組んでいるであろう四人組と、それに何事か縋りついている少年だった。


「ごめんなさい。ごめんなさい。他に頼める人が見つからなくて……ごめんなさい」

「知るか! だいたい、院試はお前みたいな下賤な人間が受けるものではないんだよ。さっさと荷物をまとめて帰りな」

「できません。僕は……」

「口答えするな!」


 男たちは躍起になって少年を足蹴にしていた。下卑た笑い声がこだまする。府試を突破した立派な童生であろうに、やはり手のつけようもないぼんくらはいるものだ。


「何やってるの! その人から離れてよ!」


 どうしたものかと思案していると、すぐ隣から甲高い声が聞こえてきた。雪蓮も李青龍も止める隙はなかった。正義感に駆られた梨玉が、後先考えずに童生たちのもとへ突っ走っていたのだ。

 四対の目が、ぎろりと梨玉を捉えた。


「何だ、女が俺に何の用だ」

「私は男だよ! とにかく暴力はやめて」

「はあ……?」


 一瞬呆けた後、爆笑が中庭に響いた。


「笑わせやがる! なあお前ら、聞いたか!? このお嬢さんは男を自称した挙句、俺たちのことを暴漢呼ばわりだ! 世迷言も度を過ぎれば反吐が出るぜ!」

「暴力を振るってるんだからそうでしょ? だいたい私は男だよ、お嬢さんじゃない。院試を受けに来たんだから」

「……おい、あんまり冗談言ってると承知しねえぞ」


 そう言って凄んだのは、おそらく伍の頭目を務めている男だ。

 絹で編まれた上質な衣に身を包み、炯々とした目でこちらを睥睨している。恰幅に恵まれ、食うに困っていないことがありありと分かった。端的に言うならば、良家のどら息子といった風体である。


 もはや衝突は避けられないようだった。

 雪蓮と李青龍は、梨玉に加勢するべく彼らのもとへ駆け寄る。


「梨玉が男だっていうのは本当だよ。それよりあんた、こんなところで弱い者いじめはよくないぞ」

「ああ? 何だてめえら」

「僕は受験者の雷雪蓮だ。……胥吏に見つかったら叱られるぞ」

「馬鹿を言うな、最初に突っかかってきたのはこいつのほうだぜ。こっちはもう定員だってのに、仲間にしろ仲間にしろって五月蠅くて敵わん」


 雪蓮は倒れている少年に目をやった。

 否――少年かと思い込んでいたが、その涙のにじんだかんばせは、可憐な少女のように見えた。背丈も筋肉もそれほどないため、十人いたら十人が女性と答えるはずである。


 だが伍のメンバーを求めていたということは、此度の院試の受験者――すなわち男に他ならないのだ。梨玉や雪蓮のように性別を偽っているのか、元からこういう顔つきなのかは判然としなかった。

 李青龍が前に出て言った。


「きみ、卓南たくなん県の王凱おうがいだろう? ご高名はかねがね聞いているよ」

「はっ、よく知ってるじゃねえか。だったら俺に突っかかってくるんじゃねえ。うちは三代にわたって進士が輩出した家系だ、お前たちとは端っから身分が違うんだよ。馬鹿どもは黙っていやがれ」

「その通りだ。こちらの非礼は詫びるから、今日のところは穏便に――」

「あーっ! あなた、さっき私にぶつかってきた酔っ払いだ!?」


 梨玉が目を丸くして王凱を指差した。

 わけが分からぬが、事態の収拾が困難になったのは明らかだった。

 李青龍が慌てた。


「すまんが梨玉殿、できれば口を噤んでほしいのだが」

「昼間っからお酒を飲み歩いた挙句、他の童生をいじめるなんて問題外だよ! 学政さまが知ったら、あなたなんて一発で不合格になっちゃうんだから!」

「梨玉殿! 噤んでほしいのだが!」

「何だと? 誰に向かって口を利いていると思ってるんだ?」

「卑怯者と話しているのっ!」


 李青龍が石のように固まった。思考を放棄したらしい。

 王凱が鬼のようにまなじりを吊り上げて怒鳴る。


「この小娘が!! 卓南王家の嫡男に向かって何たる不遜だ!!」

「そんなことは関係ないでしょ!? 進士にならんとするなら、拳じゃなくて言葉で語るべきだと思わない!? あなたのやっていることは禽獣きんじゅうと同じ!! 卓南王家の家族もきっと泣いてるよ、駄目駄目な跡継ぎだって――」

「お前に何が分かるというのだ!!」


 王凱が拳を振りかぶった。

 しかし梨玉は避ける気配もない。

 雪蓮はその場からわずかに踏み出すと――


「やめろ」


 素手で拳を受け止めていた。

 まさか防がれるとは思わなかったのか、王凱はもちろん、取り巻きの三人、伏している少女のような童生、梨玉や李青龍までもが目を丸くして言葉を失った。

 硬質な静寂の中、雪蓮は静かに告げる。


「やるなら院試の結果で競い合うべきだ。僕たちは文官を目指しているんだぞ」

「何を……」


 王凱が何事か反駁しようとした時、にわかに周囲が騒がしくなった。争いを聞きつけた童生や役人たちが、大挙して押し寄せたのである。さすがにこのまま横暴を働くこともできないため、王凱は露骨に舌打ちをすると、拳を引っ込めて踵を返した。

 その際、雪蓮や梨玉のことを睨んでおくことも忘れない。


「覚えていろよ。その浅慮を後悔させてやる」

「お手柔らかに頼む」


 王凱は仲間を引き連れて去っていった。

 その後ろ姿を見つめながら、雪蓮は静かに思考する。


(排除するか。それとも――)

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